ちーちゃんの戯れ言パンチ
 
 
最終らうんど
 

 
 
 
控え室in高梨美月
 
 
「うう〜〜〜、ちーちゃん、がんばれー・・・」
さっきからそんなことばかり言いながら、手元にある液晶画面を見る高梨美月。
もちろん、そこには日比野千歳の試合の様子が映っている。記録用というかあとの勉強用に、と姫条椚がビデオカメラなどを会場にセットしたものから繋いでいるのだ。
だが、それにしても自分の試合がこの後にあるのに、こんなに熱心に見ることはないだろう・・・・
 
「ミズキ、あんたもそろそろ身体を暖めといた方がいいんじゃないの?チトセのことも心配だろうけど、ここで心配してたってどうにもならないんだから」
ナーバスになりすぎるよりはいいのかもしれないが、これはちょっと神経太すぎだろう。
そんなので今日の試合に負けてもらったら、こっちが困るのよ!と口には出さないものの、今日はライバルのセコンドにつくリサ・ランフォードである。
 
「そうだなあ、今日の相手は”かなり”やるんだろう?プロだしな、なんせ名前も」
徳川杏香である。いや、試合の相手は「火成・槍子(かなり・やりこ)」である。
火星ジム、とかいう不思議な名前のジム所属。実力は、かなり・・やる!、らしい。
あくまでエキジビション、戦歴として星の数がどうこうという話ではないが、他人の心配をしている段ではないだろ、と・・・思いつつも、眼は美月の手元の画面へ。
 
 
第3ラウンド。試合の趨勢は桑島夏樹に傾きながら・・・・・両者、激しい打ち合い。
普段の日比野の闘い方ではないな、と思いながらも、初試合の相手である桑島夏樹に何か含むところがあるのか、このペースだとまじいなあ、と分析する徳川杏香である。
そこを高梨美月は心配して、目が離せないのだろう。余計に。
 
 
「ちょっとヒートアップしすぎなんじゃないの・・・・」
高梨美月を注意したてまえ、まっすぐには画面を見ずに、ちろ、とだけ見て言うリサ。
そりゃ彼女もチトセに負けて欲しいわけではない。むしろ、勝てば最高。そうなれば、ミヅキにも弾みがつく、これも調子に乗りやすいところがあるから・・・・
 
「うう〜〜、ちーちゃん、まずいよ、それじゃ〜〜やられるよ〜」
自分がそばについていれば・・と思うが、それはいまさら出来ない相談であるし。
かといって、このままでは・・・・ガチンコ専科ももちー流では・・・・ちーちゃんは・・・・
 
 
くら・・・・
 
日比野千歳の身体がながれた。ガードもなく。つまり、無防備。それは誘いでもなんでもなく、ただ単に打ち負かされ、相手の勢いに流された挙げ句のこと。
「標的」状態。距離にして、お互いすぐに手が届くのだ。当然、急所ど真ん中を思い切りぶち抜くに決まっている。
 
 
「これで・・・眠れっっ!!」
手元の画面からは音声は聞こえないはずなのだが、高梨美月、徳川杏香、リサ・ランフォードは確かに、桑島夏樹の必殺の声を聞いた。
 
「うわっ!!ちーちゃん!」
 
 
そして、背後から静かにもうひとつの声が
 
 
「そろそろ用意しといた方がいいわよ・・・・」
 
 
びくっっ
 
 
ちょうど敏感になっていたところに声をかけられたもんだから、三人ともそろって反射で振り返る。さすがの反応速度だった。これでは忍殺はできない。そこには姫条椚がいた。
 
「・・・どうしたの?」
なんともいえない表情で見つめてくる三人に不思議そうに問い返す。
三人で寄りそって、なにかしてたんだろうか・・・?
 
「いや、なんでもねえんだ、姫条。呼び出し役、ごくろうさん。ナ、ナイスタイミング!・・・・かもしれん、なあ、ランフォード!」
 
「そ、そうね。あのタイミングじゃちょっとチトセは・・・・じゃなかった・・ミズキ、そろそろアップにかかりましょう」
そう言って、ささっと高梨美月の手から取り上げて、画面は見ないままに電源を切ってしまうリサ・ランフォード。
 
「ああっ!ちーちゃんが」
結果の知れた試合の最後を見届けてもしょうがない。チトセの敗北をミヅキに見せても・・・・
 
 
おおおおおおおおおっっっっ
 
 
会場からどよめきの声がここまで聞こえてくる。一体何があったのか?そんなに壮絶なKOだったのか?まさか場外まで吹っ飛んだとか・・・・文月先生がチェックを入れたからロープがたるんでたとかリングが傾いてそこから落ちたとか金具が露出していて、そこで切って大流血・・ということはないと思うが・・・あまりに強烈なパンチで日比野千歳の首だけがすっ飛んでいったとか!それではおばけボクシングだが。なんにせよ、ただダウンしただけで、これほどのどよめきがあるのは・・・ちょっと不自然だ。かといって、事故とか火事とかではなさそうだ。
 
「ど、どうしたのよ・・・・・」少し薄気味が悪いリサ・ランフォードが寒そうに。
 
「ひとっ走りして様子を見てくるわけにもいかねえしな、貸してくれ」
ここらはさすがに部長の貫禄で、リサから液晶画面を渡してもらうと電源を入れる徳川杏香。会場でなにかあったのなら、これで分かるはず。簡単なことだが、うろたえるとそんなことも分からなくなる。まずは、選手の、高梨の不安を晴らしてやること。それがセコンドの仕事である。
 
 
小さな画面に四人が取り囲んで見る。なにがあったのか、このどよめきの正体は・・・・
少年マンガであればここらで引きとなるが。さて。
試合では、リングの上では、なにが起こったのか・・・・・
 
 
 
何も起きていなかった。
 
 
 
ただ、日比野千歳が立っているだけで
 
 
 
「なんだ、ちーちゃんは無事だ・・・・・・・・・って、あれ?」
高梨美月が安堵の息をつこうとして、それを途中で変える。
 
対戦相手が。青コーナーの、青グローブの、桑島さんがいない。はてな?はにゃー?
 
姿が、見えないぞ、と。
 
「え・・・・まさか、人体消失現象?ちーちゃんは実は、魔法トリック少女、ミラクルちーちゃんだった・・・?」
安堵の息がつけなかった酸素不足が原因か、岡山のおじーちゃんなみの強度のボケをかましまくる高梨美月。これで試合は大丈夫なのか・・・・
 
 
「・・・・・・そんなわけないでしょ」姫条椚の冷静なつっこみ。さすがに幼な馴染み。
 
 
「なんで、相手が倒れてるの・・・・・・・・・・・・」
リサ・ランフォードが事実を。さすがに誰かとちがって日比野千歳だけ見ていない。
 
「突発的な心筋梗塞とか、じゃなければ・・・・・あれだ。さっき、姫条に呼ばれて、振り向いたときだ。あの時、なんかあったんだろ・・・・たぶん」
首とチョンマゲをかしげながらも、状況から推理する徳川杏香。あたしに頭を使わすなよ、と言いたいが、春奈もいないし仕方がない。
 
 
じろ
恨みがましい目で幼なじみを見る高梨美月。
 
 
「私、知らないもの・・・・」涼しい顔でそれをかわす。というか相手にしていない。
 
「でも、この様子だともう少し、長引きそうね、試合・・・・」
 
 
おおおおお・・・・先のものよりはかなり小さいが、ここまで聞こえてくるどよめきと歓声。それにあわせて画面の中でも、桑島夏樹が立ち上がってきていた。少し、足にきているようだが、それでもきっちりとファイティングポーズをとった。
 
 
「よおし!ちーちゃん、一気にたたみかけるんだー!ラッシュだーらっしゅー!」
画面の中の小さなミニ千歳に声援をおくる高梨美月。それが通じたのか、ダッシュで攻め込もうとするが、ゴング。第三ラウンド終了。
 
 

 
 
「す、すごいよちーちゃん!ちーちゃんて、天才!?」
 
 
自分のコーナーに戻ってくるなり百智に騒がれる日比野千歳。そんな感慨は全くない。
が、このラウンドで沈まずにすんだのはよかった。まだ戦える。次のラウンドも戦える。
椅子にすわりながらも、さきほどから灯りだした右腕が燃えるような感覚を味わう。
 
 
カウンター
 
 
咄嗟に出た一撃がすべてを覆した。今思い出してもぞっとするが、側頭部を通り抜けるあの重たそうな青の一撃・・・あれをもらっていたら、もう終わっていたと思う。
そして、あれをもう一度やれ、といわれても無理だろう。そのくらいのタイミング。
狙ったわけではない、偶然の産物。だからあのカウンターでありながら桑島さんは立ってこれた。決まったかな、と都合のいいことを考えたりもしたけど、やっぱり立ってきた。
以前より格段に耐久力が増している。・・・・・・自分よりも強い・・・・・
自分が今の桑島さんに勝る部分は・・・・明らかに勝る部分は・・・・・・
 
 
右腕の感覚・・・・・自身の内部で強く燃える・・・・気弱になる想念をそれが、メラメラと焼いてくれる。わたしは天才なんかじゃないけれど・・・・右腕の感覚が、桑島さんを倒せる、と、いや、必ず倒す、と告げる。
 
 

 
 
「恐れといて、・・・・正解だったかも・・・・・・いや、正解だったよ」
 
自陣の青コーナーに戻って桑島夏樹はセコンドの理保ママにこう告げた。
 
あの一撃で仕留める気であったし、それをしのがれるどころか、反対にカウンターで返されるなどと、普通であったら、いつもの自分であったら、慌てて、狼狽えて、混乱して、弱気になって、そのまま折れてしまっただろうけれど、試合の前にあれだけ恐れをなしていただけに、身体が油断せずに最後の最後まで自動的に身体の奥で防御してくれていたのだろう。だから、立ち上がれた。ダメージがないわけではないが、次のラウンドも戦える。
 
 
「日比野さんはやっぱり、才能があるのかな・・・・・」
考えてみれば、初試合でカウンターで逆転勝利するなど、よほど運がいいかよほど才能があるのかどちらかだろう。余人のマネできることではない。下手な積み重ねなど一気にコナゴナに出来る「なにか」、を日比野千歳は持っている。
 
 
今ここで負かしておかないと、この先も勝てなくなる・・・・・・・そんな予感がある。
いつも彼女の背中を、桜の二又髪を拝むことになるなんて、まっぴらごめんだ。
 
 
「それでも・・・・負けない・・・・・!」
強く青グローブを打ち合わせて気合いを入れ直す夏樹。理保ママは下手な作戦など授けることなく、娘の気迫が、相手のそれに勝ることを祈るのみ。ただ勝つだけであれば、選手もセコンドもまだ若く、相手のお嬢さんにはいくらでも穴があり、それを経験不足のセコンドも埋められない。いくつか、そういった指示を出して、夏樹がそれに従い実行すれば、割合に容易に勝利は掴める。なにせ、まだアマチュアだし。
何より、二人の勝ち負けを決めるのは、採点などではなく、当人たちだけなのだろうから。
若いってのはいいわねえ・・・・・青春ねえ・・と、穏やかな微笑みを浮かべつつも、理保ママも母親であるから、その大きな胸一杯に「夏樹ガンバレ!夏樹ガンバレ!」コールがあふれんばかりにつまっていたりもする。
 
 

 
 
「マキさん!まだ夏樹さん負けてないですってば!ほんとうです!!」
 
「へえ〜?ほんと〜?あのカウンター喰らって立ってこれたら地球上の女子じゃないよ」
 
 
はあ、これで試合終わったな、混まないうちにささっといくかね、と早々に帰ろうとした割合薄情な渦マキを必死に引っ張って戻してきたささら。そして、リングの上を見ると
 
 
「うわ。ほんとだ。・・・・・・・まろやさんに密かに強化改造されてたりして」
まんざら冗談でもなさそうな顔で言う。
 
「でしょう?まだまだいけますよ!ね?秋人くん!」
 
「ささら、それってマキさん発言を認めて言ったのか?・・・・・まあ、いいか」
リングの上の桑島夏樹をひたすらに見るささらはちょっと感動モードに入っており、永沢太刀の言葉も耳に入っていない。
 
「ね、姉さん・・・・・・・」これで勝った、というところをいきなり逆転カウンターで、天国一歩手前、で、ふりだしにもどる、地獄三丁目、まで叩き落とされた姉の激しすぎる遍歴を凝縮濃縮された波瀾万丈を見てしまい、震えが止まらない桑島秋人。本人にあまり自覚はない。だが、ここにきて胸の奥から黒煙のごとくにモクモクと「日比野千歳の戯れ言パンチ疑惑」が立ち上り、脳を心配の灰色に塗りつぶす。 もしかして、日比野千歳はほんとにあれぐらい強くて、今までは姉さんをからかって苦戦のふりして遊んでいただけなんじゃ・・・・と。
千歳本人にしてみれば「いくら温厚なわたしでも、そんなこと言われたら怒りますよいいんですか」というようなものだが。桑島秋人の心配は本物だ。心配性、ともいう。
 
 
「でも、これで疑惑を解明する機会が消滅せずにすんだわけだ。そろそろ双方、体力的に追いつめられてるし、”なんか”やってくるんじゃないかねえ」
それをさらに助長、横から心配の煙をいや増す、旋風の渦ノ屋マキ。怪しい笑みを浮かべている。ほんとにこの人、姉さんの友だちか!?桑島秋人はにらむが、気にしない。
 
 

 
 
「あれをねらって出せるようになれば、日比野も一人前だなあ。いつでもプロになれる」
渦マキとはまた別に不敵な笑みをうかべるのは文月先生である。両方ともまあ、勝手なことを好きにほざいているともいえる。
 
「それにしても、大城は見事な仕事ぶりだなー。とても素人が初めてやってるとは思えん・・・・」
それから、実に余計なことでいたく感心しきり。大物は違うのである。
 
 

 
 
第四ラウンド
 
 
カウンターのダメージが抜け切れていないのか、今ひとつ生彩のでない夏樹を燃え上がる勢いのままに攻める千歳。そして、ロープ際に追い込でいく・・・・
 
 
「ちーちゃん、いけいけー!!」勝利を確信するセコンド百智の威勢のいい声にのって。
千歳の攻撃、夏樹のガード。一方的な連続攻撃はいやがおうにも試合の終結を予感させ、観客の声援を倍加加速させる。ときたま出す夏樹の反撃も千歳の前に空を切る。
そして、右ストレート。夏樹の顔面へのクリーンヒット。右腕が熱い。殴った相手の顔が焼けるのではないかと思う。すぐに防御で閉じられるが、そのまま腕で造られた青い城壁を焼き尽くす・・・赤い攻城鎚を何回か、相手の腹部に押し入れる。衝撃でトランクスに包まれた尻が軽く持ちあがる。「るぱっっ」さすがに効いたらしい、たまらずに夏樹が抱きつきにくるところを・・・・千歳はコンパクトなショートアッパーで弾く!
 
 
ところが、ぎっちょんである。
 
 
ギッチョン
 
 
そんなカラクリめいた音がしたように。千歳のショートアッパーはかわされ、そして絶好の追い込み位置であったロープ際を「入れ替えられて」しまっていた。
 
 
「え?」
驚く千歳に夏樹の右フック。もろにくらって頭が跳ね飛ぶ!間髪いれてもひとつ左!
そこから始まる夏樹の反撃。マシンガンのごとく連打を千歳にいれていく!!。
対応が間に合わず、ぴょぴょぴょぴょ、とまるで足が折れたすずめのような有様の千歳。
 
 
「驚いた?日比野さん」
マウスピースもはめているし、攻め時であるからのんきに余裕こいてそんなことを口に出して言ったりしないが、夏樹の眼は確実にそう告げていた。殴られている千歳にはそんなこと分からないが。分かるのは、またしても相手の術中にはまったことだけ・・・。
 
 
「”疑惑その一”破り・・・・・フフフ」
渦マキがその光景を見ながら偉そうに呟く。
 
「な・・・なんなんですか?それは!」
渦マキに聞くのはちょっとシャクなので、ささらに尋ねる桑島秋人。
 
 
「正直、わたしたちも夏樹さんの話をはじめて聞いたときは、なにかの間違いじゃないかって思って・・・それで、詳しくその時の状況を思い出してもらいながら、推測してみたんだけど・・・・」
 
 
”せかいがさかさに”
 
 
たしか、高梨美月選手は、やられながらそんなことを言ったような・・・、という夏樹の記憶からいろいろと智恵を絞って当時の状況を推理したのだと七織ささらはいう。
 
 
まさかその答が「吊り天井固め」であることなど、もちろん知らないわけで。
 
 
推理した結果をもとに、その対策を練っていたらしい。それが今のアレなのだと。
体勢の入れ替え。強引にやるか技術的にやるかはともかくとして、せかいがさかさ、というのはそのことを指すのではないか、だーるね、と。考えて、実地指導したのはここにいない金城夏海であるのだが。
 
 
まさかその答が「吊り天井固め」であったことなど分かるわけがなく。
 
 
ちなみに、渦マキたちが出した「疑惑その2・脳天直撃」の答は、
 
「相手が外人であるから、それが時代劇にでもかぶれていて、それで剣道に興味があって、竹刀で試し斬りされた」
 
という、偏見に満ち満ちたものだった。ちなみに回答者は渦マキ。他に答えもなかった。
ゆえに、問題視もされなかった。
 
 
疑惑その3も「はりきりすぎた後輩の体力切れ、つまりはガス欠」という、これはまっとうな見解で一致した。渦マキはこの点について、いろいろ意見があるようだったが、いかんせん時間がさほどあるわけでなし、口だけでなく実際に練習を積んで身体に覚えさせなければならない、だーるね、という金城夏海の正論に一蹴されて終わった。
 
 
というわけで、疑惑その一については、かなり真面目に対策を、それから深く研鑽を積んだ、というか積まされた桑島夏樹。そして、その成果が今、リング上で展開している。
 
 
その答を聞いて、桑島秋人は、正解を知っているだけに、愕然とし、また、それほど姉のために真剣に応じてくれた者たちに、ありがたく思った。また、そのために、「疑惑その三」について口に出すことが出来なかった。それに、そんなことを言っている余裕などない。文字通り、一転して反撃を開始した姉の勢いは凄まじく、日比野千歳をリングから叩き落とさんばかりに殴り続けている。ロープを背にした千歳はなんとか逃れようとするが、そうはさせない夏樹。逃げ道にことごとく青い地雷(クレイモア)を配置して、炸裂させていく。完全封鎖。絡め取られた桜色の鶴のごとく。飛び立つこともならず。
 
 
「ちーちゃん、たえてー!たえろー!!」
「日比野せんぱい、あと三十秒です!」
セコンドの百智と紗代コンビがさすがにやばいと大声で指示を出す。
だが、千歳には聞こえない。夏樹の攻撃が激しいのもあるが、冷静さを失いはじめている。
右腕の熱さ・・・・どつかれつづけてだんだんに麻痺していく他の場所と違い、感覚はそこだけ奇妙に研ぎ澄まされ鋭敏になっていく。・・・・なんとか、突破しないと。
連続攻撃をする夏樹の息もさすがに荒くなっていくが、手を休めようとはしない。
ここで逃げられて距離をとられればまたどうなるか、わかったもんではないからだ。
 
 
顎先のピンポイント。
 
ふと、夏樹のそこに隙ができた。ように見えた。
 
ちょっとやそっとの一撃ではこの怒濤の勢いは止められない。
そこを撃ち抜いて、それこそ首と頭を梃子上げてやるくらいではないと。
 
 
「あと十秒!ラスト十秒!」紗代の声は届かない。これが高梨美月や文月先生であればストップがかけられたのだろうが、いかんせん、遅かった。
 
夏樹が力を貯めるために、わずかに攻撃に切れ目が出来た。そこを
 
 
夏樹の顎先を撃ち抜くように、千歳のパンチが飛ぶ・・・・・
 
 
その狙い、タイミングは良かった。それは夏樹にしてみれば、完全にしてやられる一撃で、もしくらっていればそのままカクンと倒れて立ち上がれなかっただろうほどに正確に急所を狙った一撃。これほど打ち込まれようと諦めずに勝機を掴みに、相手の首をねらってくるあたり、ものすごい闘志であったが、それが完全に裏目に出た。
 
 
速度が出なかったのだ。いくら狙いがよかろうとパンチのスピードが遅ければなんにもならない。さらに、力を貯めた夏樹の・・・もちろん、フィニッシュのつもり・・・・ガードごとやってやろうという必殺の一撃・・・「スマッシュ」が、そのまんま命中してしまった・・・・・夏樹にとってはうれしい誤算であるが、千歳にとってはたまったものではない。
 
 
・・・・・・・・・
 
 
悲鳴すらあがらない、こういう時は。
ただ石になり、氷になり、時計になるだけ。さらさらと沈黙が流れる・・・・・
 
 
どさ・・・・
 
 
スマッシュの威力で一瞬、ロープ際から肩から上が飛び出す格好で、反動ですぐ戻り、その際、ロープに腕がひっかかり、故障した水飲み鳥のような奇妙な体勢でへたり込むことになった千歳。当然、ダウンである。というか試合終了であろう、これは。
誰しも、これは勝負あった、と思った。素人目にも、赤コーナーの娘が、なんらかの賭けにでて、それをしくじったのだ、ということくらいは分かる。ごっそり体力というチップをもっていかれたことが。そして、カウントが10されれば勝負は完全に終わる。
翼を畳んだ折り紙の鶴のようなぺしゃんこな有様の千歳・・・・
完全に気が抜けてしまっている・・・・意識もあるかどうかあやしい・・・・
 
 
勝った・・・・・・さすがにあれでは、立ってこれないだろう・・・・・
ちょうどガードが解けたところに、だったし・・・。
自分のコーナーに戻りながら己の勝利を確信する夏樹。
 
 
ざわざわざわざわざわ・・・・・・・・
 
 
たかがアマチュアのエキジビションに本日何回目のざわめきであっただろう。
試合の当人、勝負の当事者である桑島夏樹はいちいちそんなの聞いてないし、数えてもいないが、こればかりは無性にはっきりと聞こえて、振り向いた。そこには・・・・
 
 
よろぼろと立ち上がろうとする日比野千歳の姿が。
 
 
おまけに、なんともあきれたことにまだ試合続行の意志があるらしい。
レフェリーの問いかけに強くうなづいている。そのために立ち上がってきたのだから。
ここで立ち上がらなければ、負けなのだから、と。いわんばかりに。その目は。
 
 
レフェリーも判断に迷っているようだったが、もはやラウンドは終了であるし、インターバルあけて様子をみてもいいだろう、と決めたようだ。正直な話、ラウンド内では気やら脳内麻薬やらが神経を張らせていても、インターバルですっかり抜けて、椅子から立つこともできませんでした燃え尽きてました、ということもありうる。そうなればストップをかければすむ話でもある。
 
 
と、いうわけで、この時点ですでに八割方、勝負は決まっていた。
なんせレフェリーがそんなことを考えていたのだから。人によってはアマでもあるし、選手の安全や健康を優先して、ここで試合終了を告げていたかも知れない。
 
 
これは観客にしても、多少は事情を知っている者たちにしても同様であった。
立ち上がってきた勇気や根性は買うが、それだけではいかんともしがたい。
ぼろぼろの日比野千歳に比べて、その闘気や生気を吸い取ったかのように、うっすらと青く輝くオーラのようなものをまとっている桑島夏樹はまだ次のラウンドも攻め続けられるだけの体力があるのが見てとれるからだ。妙齢のわりにはいやに色気があるセコンドと話す表情も余裕がある。
 
 
うって変わって、赤コーナー、日比野千歳の陣には余裕がない。全然ない。全くない。完全にない。幼いセコンドが必死に傷の治療や体力回復にあたっているが、半分うつむいている千歳はもはや死んでいるんじゃないかと思わせる。その割には、止めさせるという冷静、冷徹な判断も娘セコンドにはつかないらしい。
 
 
まずいなあ・・・・・・この盛り上がりならば不要であっただろうラウンドガール役の大城春奈は、歯がゆさを通り越してつくづく悔いていた。そして恨んだ。百智と荻野さんはよくやっているが、さすがに力不足だ。いきなり単独で役をつけるには場数が足りなすぎた。経験といえば経験だけれど・・・・・青コーナーの桑島夏樹の元気なこと・・・・しかも、鋭く的コーナーを見据える目つきに油断や慢心は微塵もない。その真摯さは最終ラウンドに日比野千歳が出てくれば、情け容赦なくリングに這わせるぞ、と絶対一徹のもの。
優しいとか残忍とかいうラインの向こう側、これはひどく単純な、可燃物に火をつければ燃える、といった真理。的が出てきたから撃ちました、という機械レベルですらない。
 
 
分かりやすく言うと、今度こそ立ち上がれなくなるまで、一方的だろうとなんであろうと、ギタギタに殴っちゃうぞ、ということである。桑島夏樹の眼が言っているのは。
この位置にいるから、大城春奈には敏感にそれが分かる。
 
自分がセコンドについていれば、日比野さんに恨まれようと、ここで止めさせる。
どうも今回は相手が一枚上手だ。それに、よく研究もしてきているようだ。頭もいい。 
大けがをする前に、鉾を収めて後日、正式な大会でお返しをする・・・・ヘッドギアもないし、目やら耳やらを痛めては元も子もない。レフェリーと似たようなことを考えているわけであった。だが、彼女らにそれを伝えたり命じたりするわけにもいかない。
・・・・だから、文月先生を恨むのだ。恨みます。それは負けることも経験なんでしょうけど・・・・さすがに笑顔が曇りもする大城春奈であった。
 
 
「姉さん・・・・・・・もう少し・・・もう少し・・・・」
桑島秋人は姉にどんな祝いの言葉をかけるか考えるのでいっぱい。もはやなんの心配もいらない。疑惑のことなんか、忘却のダストシュートに入れる手前。
渦マキ、ささら、永沢太刀などの面子も、夏樹の特訓が実を結んだようで、それは嬉しい。
 
「あの調子じゃ、暗黒ゲロンパDoって感じだねえ」
意地の悪く、かつ読みの鋭い渦マキなどは、このインターバルが済んでも日比野千歳が最終ラウンドに出てこない局面も予想して、訝しむささらをうながし、ハイタッチしたり。
 
 
 
「ちーーーーーーーーーーちゃあーーーーーーーーーーーーーーんんっっ」
 
「痛い!痛たたたたたたたたたたたたたたたたた、ミズキ!離しなさいよ」
「き、気持ちは分かるがあいたたたたたたたたた、なんて握力だだだだだ」
控え室では高梨美月が高ぶる精神を抑えかねて、リサ・ランフォードと徳川杏香の手を握りつぶそうとしていた。まるで美女を奪われたキングコングである。悔しくてしょうがないが、どうしようもない。プロであるから、安易に奇跡など求めたりしない。たとえそれが日比野千歳のためであっても。
 
 
 
インターバルは、千歳側からすれば、あっという間に。
夏樹側からすれば、いささかゆっくりと。終わった。
 
 
 
「最終ラウンド、か」
文月先生がこの期に及んでもまだ不敵な笑みを消さずに言った。公平かつ大物な観点で、教え子が負けてもさほどに悔しくないのだろうか。
 
 
「さあ、日比野、見せてみろ。お前の底力を・・・・!」
ファンタジー小説に出てくる悪役の女将軍みたいなことを言っていますが。
 
 

 
 
最終ラウンド
 
 
すでに勝敗は八割どおり決まっている。
 
 
そのわずか前の、赤コーナー、千歳の陣での一幕。
荻野紗代が何か意を決したように、日比野千歳に耳打ちする。
すこし、驚いたように顔をあげる千歳。うつむいていたのは体力保存のためで、気力がなくなったわけではない。・・・・しばらく考えて、紗代にむかってうなづく。
そして、ゆっくりと、やわらかく赤いグローブを合わせる。気合いをいれるにはあまりにもおだやかな動作。合掌したようにも見える。
 
 
レフェリーが近づき、試合続行の意志をもう一度確認する。そしてレフェリー自身の目による体調チェック。・・・・少なくとも、リングの上で負け、勝者の名を聞く資格はあるようだった。
 
 
ゴングが鳴る。
 
 
観客の注視は、赤コーナーへ。はたして、リングまで出てこれるのか。
ぶわっと、圧力すら感じさせる、黄砂混じりの強い風のような注目を浴びる日比野千歳。
赤いグローブを構えて、ゆらり、と構える。だけれど、それはいかにも弱々しく、試合の中盤頃に比べると一回りちいさくなったような錯覚さえ起こさせた。
 
 
それはまた、対戦相手、試合の当事者である青コーナー、桑島夏樹にしても同じこと。
威圧感がない。リングの半分を正確に支配していたはずの相手はすでに領有権をこちらに明け渡したかのように。そのこじんまりとした構えはいまにも拳の代わりに白旗でもあげてきそうで・・・・
 
 
「え・・・・?」
 
 
白旗なんてあげなかったが、ゆるやかに、のろのろと、右拳を突き出す日比野千歳。
まだ近づきもしない、双方コーナーに近い位置で、そんなことで届くわけもない。
ろくろ首ならぬ、ろくろ腕でもない限り・・・・・・
 
 
「・・・・・・」
待てよ・・・・・桑島夏樹の足が止まる。接敵を一時中止。ろくろ腕・・・・覚えのある連想だった。相手の赤いグローブは突き出されたままで停止している・・・・。
 
 
異様といえば異様な光景。伸ばしきった腕では相手を殴ることはかなわず、だいたい、間合いにすら近づいていないのだ。これは何かの挨拶、とみた方が正しいだろう。
この試合に実況解説でもいれば解説してくれるのだろうが、あいにくそんなものはいない。
いたにしても、かなり困っただろう。理解不能なアクションだった。
 
 
「まさか・・・・・・!!」
だが、それでも観客の中には、会場の中には、日比野千歳の最終ラウンド、いきなりの奇異行動の意味が、意図が分かる人間もいた。やってる本人、日比野千歳と、セコンドの荻野紗代と、そして・・・・
 
 
「姉さんっ!それにあわせちゃダメだっっ!!」
いきなり必死な大声をはりあげる桑島秋人である。
 
 
だが、注意喚起はおそすぎた。赤コーナーの不審行動にざわめくものの会場には確かに弟の声が通ったのだが、夏樹はそれをきかなかった。きくより前に反応してしまった。
持ち前のスポーツマンシップと人の良さで、「ああ、これはたぶん、最終ラウンドだから、お互いのここまでの健闘を称え合う仕草なんじゃないかな」と思ってしまった。
 
 
青い左グローブが同じように肩の高さまで持ち上げられて・・・・・
 
リングの反対側の、千歳の赤いグローブと向き合った。距離がある。そのまままっすぐに距離をつめれば、グローブが正確にぶつかり合わせられる・・・・。
 
観客席からは見ようによっては、それは日比野千歳が「待った」をかけているように見える。奇妙な交流、奇妙な時間が流れる・・・・。そう長いことではなかったが、奇妙な時間が奇妙な現象を起こすのには十分だったようだ。
 
 
日比野千歳が、わずかに歩をすすめた。それに合わせて、右拳をわずかに押すかたちに。
拳法でいう順突き、というやつだ。もちろん、その歩幅で相手に届くわけもない。
 
 
が・・・・・・・
 
 
はらり・・・・・・
 
 
突如、散り際を教えられた桜のように。なんの前触れもなく、桑島夏樹が尻餅をついた。
まるで足腰が固まったまま、とん、と透明人間に押されたように。不自然きわまるダウン。
 
 
「え・・・・・?」
 
 
何が起きたのか、分かっていないらしい夏樹。呆然とする。
レフェリーも呆然とする。観客も呆然とする。会場が呆然とする。時計だけが我関せずと時をすすめる。
 
 
「やられた・・・・・・・日比野千歳の戯れ言パンチ・bRだ・・・・・・ね、姉さん!、早く立って!!」
「れ、レフェリーさん!か、カウントとってください!ダウンです!」
 
 
桑島秋人と荻野紗代の声が同時に会場に響く。それで我に戻ったか、スイッチを入れられた野外スピーカーのごとく驚きの大重低音を発生させる会場の者たち。
 
 
 
「おいおいおいおいおいおい・・・・・疑惑その3ってマジだったのか!?」
一応、話には聞いていたが、「後輩のガス欠」で結論づけていただけに衝撃が強い三人。
渦マキにしたところで仮説だけはいろいろ口にしたものの、実戦の試合でそんな器用なことできるもんかい、と考えていたので言葉遊びのようなもんだったが、こうやっていざ現実実際に拝むことになれば・・・・・まさに日比野千歳脅威!!!天才どころじゃない!
 
 
この驚きは、素人はもちろんのこと、玄人ほど大きい。当たりもせずに相手を倒す、そんなパンチが本当にあるのなら、ボクサーはみな今日からはコペルニクスにならねばならない。だがまあ、順当に考えれば、今のは単に桑島夏樹がダメージが残っており、今頃それが効いてきた・・・・、とか・・・・であろう。ちょっと苦しいが。
それでもまだ、こんなことをまともに受け取るよりは精神の健康に良かった。
 
 
 
「ははーん、なるほど・・・・・面白いことを考えるけど、まさか試合で実行するかね・・・はは、日比野も荻野もいい度胸してるじゃないか」
チャンピオンの看板は伊達ではないらしい。文月先生はどうやら仕組みを見抜いたようだ。
 
 
レフェリーは、一応桑島夏樹の状態を視認した上で、カウントを始めた。
後遺症が残るような不気味なダメージはないようだが、倒れた理屈がわからない。
顔を見るに、倒れた桑島夏樹当人も分かっていないようだった。
まるで、生まれて初めて試合のリングにあがって、カチカチに緊張したあげくに、自分で転んだような・・・・そんな感じだった。まあ、あれだけ相手を強烈に叩きのめしておいていまさらガチガチに緊張もなかろうが・・・。
 
 
ゆっくりと起きあがり、カウント8。自身の状態を確認しながら。
 
 
もとより大したダメージがあるわけがない、が、夏樹当人は気づかないものの、セコンドの理保ママや、文月先生など、玄人の目には夏樹がこのダウンの間に、”とある重要なもの”をごっそり落としてきたことが分かる。自陣、青コーナーにいた時分には確かに纏っていたはずの、青く輝くオーラ・・・・それがきれいさっぱり無くなっていた。
 
 
日比野千歳の目には一番はっきりと分かる。ラウンドが始まる前は離れた青コーナーからジンジンと肌で感じていたほどの威圧感が弱まってきていること。
 
 
青いオーラ、などという格闘マンガみたいな表現を使わなくとも、単純に言えば、それは
「集中力」である。それが、途切れた。本人には自覚がない。
戦闘回路から日常回路へ。切り替わってしまった。これは油断しているのではなく夏樹が
 
 
「なんで?」
 
 
などと頭を使っているからだ。物事の根幹について思考するとなれば、どうしても血沸き肉踊る戦闘の神経では追いつかない。やはり物を考えるには考えるなりの神経の方に集中させないと。こんな奇妙なことが自分の身に起これば、肉体と脳は逃亡を含めた全手段を考慮に入れて事象の分析にかかる。なんでもかんでも闘えばいいとなると、長生きできないわけである。もっと分かりやすく言うと、「夏樹びっくり」状態、と、こうなる。
 
 
もちろん、先のラウンドで限界ギリギリまでボコボコにやられた千歳にしてみれば、千載一遇!!、でもないが、最後の!!、最終ラウンドだからあたりまえ、いや、とにかく!!攻め時であった。荻野の紗代ちゃんに、あれを使ってみてください、といわれて半分やけでやってみたものの、こうもうまくいくとは思ってなかった。なんでうまくいったのかも、あまりよく分からない。非常に成功率の低い呪文がたまたまかかった、幸運のような。
 
 
なんにせよ、たたみかける!!
これでまた向こうが第四ラウンドのような隠し玉をもっていたら、もうお手上げだ。
せかいがさかさになってリングの上で大の字になってのびているだろう。
それでも、せめよせる!!
 
 
さっきのショックが尾をひいているのか、相手が及び腰になってくれるのがせめてもの追い風。ひたすらそれに乗り、振り落とされないように。
 
 
がんつ!
 
 
奇妙なてごたえと音がした、と思ったら、桑島さんが倒れていた。
リングを包む波のようなどよめき。人の声なのか原始の楽器なのかよく分からない。
右腕の熱い感覚が。あともう一回だ、と命令する。あと、もう一回・・・・
 
 
「な、なんなの・・・・・・・?」
 
泣きそうになっている桑島夏樹。この状態、2ダウンさせられているこの現状が、どうしても理解できない。こっちの方が断然、有利だったのに。わたしの方が強いはずなのに・・・・・こちらを見下ろしてくる日比野千歳の目が、こわい。
 
疑惑その一、疑惑その二、そして、疑惑その三、
 
それら、すべてが夏樹の背中にこなきジジイのように重みを増してのしかかる。
恐怖、相手の実力を過大評価してしまうことで造られる幻像。
日比野千歳と闘いながら、乱入してきたその強敵とも闘わねばならないのだ。
夏樹ががぜん不利になってくるのはむりからぬこと。なんせ、一対四だ。
しつこく攻めても千歳の攻撃力は今やあまり大したことはないのだが、気力が大いに削られていく。まだ、集中力の再接続が、戦闘回路への切替が、夏樹びっくり状態の回復がなされていない。そうでなければ、フラフラの千歳などすぐに負かされている。
 
 
フラフラのボクサーとおびえのある一般人、どちらが強いか。微妙なところであるが、いま実証検分がなされている。
 
 
カウント7で立ち上がる夏樹。その眼にはまだ迷いがある。迷っている余裕すらもじつはない、もはや考えることもやめている千歳の目からすれば、そんなのは「いいカモ」であった。赤い鉄砲で撃ち抜きにいく。試合は混沌としてきた。天秤がどちらに傾いているのかさえすでに分からなくなっている。八割方、決まったはずのこの勝負が。
 
 
けれど、時間はそんなことおかまいなしに、正確に刻み続けている。
最終ラウンド、残る時間は・・・・・あとわずか。
 
 
「ちーちゃん!いけいけー!!おしまくれー!桑島にげるなー!!」
「日比野せんぱーい!たおしてくださーい!」
妙なもので、攻めるごとに千歳の体力が回復してきているように見えて、声の限りに押しまくらせるセコンド二人娘。それとも、ちょっとでも攻めるのを止めればそこで電池が斬れたようにころん、と倒れてしまうのでないかという恐さがあるのかもしれない。
控え室では試合を控えたプロボクサーが、驚喜状態で暴れ回る、という事件が起きていた。
 
 
ダメージはあるし、疲労の頂点ではあるし、千歳の攻撃は大したことはないが、それでもかわしきることもできずに、圧されている夏樹。恐怖心、という枷が四肢をしっかり縛り付けてその動きを鈍くさせていた。疑惑、という名のかたちのない怪物。
 
 
 
実のところ、疑惑その3,の正体というのは、千歳がこのところ読んでいる格闘雑誌の”秘伝特集”に載っていたものだった。南都科家・気孔拳法。なかなかに怪しい代物で、これを極めると遠く離れた相手を吹き飛ばせるとか。やりもせずに読み捨ててしまわず、一応、試してみるだけ試してみる態度はいいのかわるいのか、それは実験台にされた者が決める権利があるだろう。
 
「対掌(トイショウ)」という気孔の練習方法のひとつで、掌を向かい合わせたふたりの人間の間にある”気”を押したり引いたりしてそれを感じ、練っていく、というものがある。我が拳法はそれをアレンジしたもので、これによって気の力が増してくると、手を押すだけで、離れた相手を押し倒すことができる、とそのナントカ家・気孔拳法は言うわけだ。ただ、雑誌に載るだけのことはあり、はっきりとこう断り書きがついていた。
 
 
1,”気”のパワーを信じない人
2,暗示にかかりにくい人
3、この記事を読んで笑った人
 
 
にはこの気で押し倒す技はかかりません、と。逆に言えば、この条件のさかさまの人間にはよくかかるわけだ。早い話が、人が良くてだまされやすい、というわけだが。
 
日比野千歳が、あの時、荻野紗代に試してみたのは、上の条件を満たしているのはもちろんだが、オーバーワークで無理をしないよう、諫めるためでもあったのだ。気でもなんでも、まともにやり合わない内からへたりこむような体力じゃなにしても意味なし、ということを教えたわけだ。やる気の火を消さないように、という千歳の考えがあったのだが、桑島秋人の評するように、ちょっとそれはヘンかもしれなかった。
 
だから、千歳もそう”気”、なんてのを信じているわけでもなかったし、その後、高梨美月などによる追加の調査の結果、相手がそうとうに限界近くに疲労していないと暗示なんかには人間、よーかからない、ということが分かった。
というわけで、千歳もこの戯れ言パンチで天下を獲る気は毛頭ない。し、とれないだろう。
 
 
だが・・・・
なんとも間が悪いことに、桑島夏樹はP高校を訪れた時、最悪のタイミングで、その「暗示」にかかってしまっていた。スポーツ少女の長所を生かして、練習中や、試合に集中している時はすっかり忘却の彼方で思い出しもしなかったのだが、いったん思い出してしまうと、意識の底に刷り込まれていたそれは、うぞぞぞぞと蠱のごとくに動きだし四肢を締め上げ麻痺させる。
 
 
荻野紗代がインターバル中に千歳にその使用を進言したのは、成功の確信などなく、半分、暴走に近い。なんとかして助けになることを言わねば、という義務感焦燥感から無理矢理にひねりだしてきたのだった。結果、それがうまくはまったのだから、実験台にされた甲斐があったというものだ。
 
 
だが、夏樹も、日比野千歳の脅威を完全に勘違いながらも感じなければ、わざわざささらたちを頼ったりせずに自分のテリトリーだけで練習して、このような試合展開にはならなかった、かもしれない。それでも、最後の最後に戯れ言パンチなぞにいいようにやられるとは・・・・・
 
 
「これで!!」
 
ぱぐわしゃ!!
 
千歳の右アッパーが、夏樹のマウスピースを跳ね飛ばす。残る最後の最後の力を詰め込んだ、戯れ言でもなんでもない本当の本物の破壊力。真正面からの、まさに粉砕。
どちらが強いか、強かったのか、衆目に完璧に思い知らせる形。
 
 
背中から倒れ込む夏樹。ダウンすれば3ダウンで負け、もしそうでなくてもこの完璧な一撃はよく耐えられるものではない。もはや夏樹の眼には戦意そのものがない。
日比野千歳に消されてしまった。戯れ言パンチという魔物を飼い慣らす千歳に。
 
 
 
その時。
 
 
「姉さん!!」
「夏樹!!」
(パシャパシャ)!!
 
 
桑島秋人、弟の声、桑島理保ママ、母親の声、そして、写真のシャッター音が。
それは、儀式。試合前に行い、意識を試合用、戦闘用にするための三体儀式の略式。
神経は一般生活用から拳闘用に切り替わり、状態は夏樹がっくり、から夏樹やります!に。
精神の集中を復活させて、桑島夏樹はボクサーに戻った。いったん途切れた集中を元レベルまで回転させるのは尋常なことではないが、夏樹はそれを行って、戯れ言パンチの恐怖心、暗示を脳裏から消し去った。
 
 
それが時すでに遅かったかどうかは・・・・・・そのカモシカのような、バネのある夏樹足に聞けばよい。山岳地帯ですらピョンピョン飛び回るそれが、平坦なリングで墜落することなど。パシャパシャパシャパシャパシャパシャ・・・・・・・!!サーチライトよろしく高速で愛娘の姿を追うカメラのファインダー、そしてシャッター音。
 
 
最終ラウンド終了、十秒前。
 
 
日比野千歳も、ほんとの天才なのかもしれない。
この桑島夏樹の再生と襲来に驚きもせずに迎え撃つ。
 
 
高速の青と、一閃の赤の、交差。
 
 
どちらが勝っても、おかしくなかった。
 
 
だが・・・・・・
 
 
かーん、かーん、かーん、かーん
 
 
試合終了の鐘が鳴らされた時、レフェリーに片手を上げられたのは・・・
 
 
 
「赤コーナー、・・・・日比野、千歳!!」
 
 
日比野千歳だった。
 
クロスカウンターで、同時にノックダウン。前回と違って、カウンターで仕留めきれなかったわけだが、実のところダメージは千歳の方が深かった。まだまだ足がピンシャンしている夏樹は、衝撃を大部分吸収してよろけ倒れただけで早々に立ち上がってきた。それはそれで3ダウンで負けである。が、千歳の方がなかなか起きあがってこない。
 
 
「テンカウントして、日比野が起きなかったら、日比野の負けにしろ」
文月先生がそこでえらいことを言い出した。ちなみにこの人がこの大会のルールである。
誰も逆らえないし、レフェリーも異論がない。カウントをはじめる。
 
控え室から高梨美月が「ちーちゃんを起こしてくる!!」などと間に合うわけがないのに無茶なことを言い出してセコンドに羽交い締めにされたり、百智荻野のセコンド娘が声が枯れるまで呼びかけたり、それに応じて観客が「千歳コール」を始めたり、「うりゃうりゃそのまま寝テロ!暗黒ネムネム大将の呪いをかけてやる!」と渦マキが呪いをかけたり、
桑島秋人が祈ったり、いろいろあったが、結局。
 
 
カウント8,9くらいで日比野千歳は立ち上がってきた・・・・。
ふらふらで、ここを夏樹に狙われたらひとたまりもなかろうが、もう試合は終わった。
 
 
日比野千歳の勝ち、
 
桑島夏樹の負けである・・・・・・
 
 
 
勝負がつけば、あとは語ることもなく。
と、いうわけでこのあたりでこの小説も終わる。
 
 

 

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