ぴーこさん江 石龍作
 
 
ちーちゃんの戯れ言パンチ
 
第六らうんど
 

 
 
「うーん、微妙な間に合い方だなあ」
渦ノ屋マキが言ったとおりの到着時間だった。ランド内に入ってからはささらたちと一緒であるから迷うこともなく最短コースを駆け抜けたが、それでもやはり遅かった。
記念イベント・ボクシング大会会場・・・・なかなか賑わっていた。
 
 
売り文句の割にはキッズ領域もターゲットにしているのか、前座の前座であるボーイスカウトの子とガールスカウトの女の子とのベビーボクシングが終わり、次の前座、つまりはアマチュア女子高校生、日比野千歳 対 桑島夏樹 の試合が始まろうとしていた。
両者の選手コールが終わり、リング中央でレフェリーの説明を受けている・・・・。
 
 
桑島秋人が荒い息を整えながら、リングに近づいていく。べつに指定席などないから、なるべく近く、姉の姿が見られる、もしや自分の声が届く範囲に。足取りが筋肉痛で怪しい。
 
 
「うーん、忘れ物は間に合わなかったけど、秋人くんが間に合ったからいいですよね」
ささらがリュックから取りだしたのは、小さなアルバム。もちろん、その中には桑島家の写真がつまっており、夏樹は試合前、恐怖に震えそうになるとそれを見て気を静めて、精神集中するのが習いだった。やはり殴り合いというのはおっかない。かといって、別人にもなれないし、他人に任せるわけにもいかない、それに立ち向かうのは自分なのだ。
そういった心の確認作業のためにアルバム(当然、撮影したのは父親)があるのだが。
 
 
青コーナーの、青いグローブで拳を包んだ桑島夏樹の表情には一切の迷いがない。
ひたすらまっすぐに、するどく、対戦相手の日比野千歳を見ている。
 
 
「へえ、いい顔してるじゃないの」渦マキがにやりと笑う。これなら応援してもいい、と。
「ねえ?」桑島秋人、弟くんにも同意を求めるように見た。
 
 
「はい・・・・」その桑島秋人はまた姉と同化したように、赤コーナー、赤のグローブに拳を包んだ日比野千歳の顔を見ている。真剣な表情、確実に相手をぶちのめすことしか頭にない顔だ。それも、己の両拳のみで。それ以外の余計なもの、戯れ言パンチを用いて勝利をつかもうとする小ずるさなど微塵も感じられない。あえていうなら、清楚でさえあった。姉がぶん殴られなければ、だが。ゴングが鳴ればそんな悠長な感想はいうてられまい。
 
一度、姉はこの相手に負けているのだから。
 
さらに歩をすすめて青コーナー、リング近くギリギリまで寄る。できるだけ、姉の近くにいたかった。一応、ささらたちもそれにつきあってくれる。ちら、とセコンド位置にいる理保ママが到着した秋人たちに気づいて、ウインクした。
 
 
「うわ!!なんだあの色気ムンムンのセコンドは!桑島秋人君!君の姉貴であるナッキーのセコンドがあんなボリュームでいいのか!?」
なぜか秋人に詰め寄る渦マキ。言ってることも口調もどこかおかしい。
 
「ああ・・、母なんです・・・桑島理保・・・なんだか、そういうことになって・・・・」
母がセコンドというかボクシングの心得がある、というのも今回初耳だっただけに説明も釈明もしようがない。
 
「ふーん・・・・」けれど、ささらはどこか覚えがあるように首をかしげる。
「確か、玉吉コーチに聞いたようなことがあったような・・・」
 
 
「そ、それはいいけど、そろそろゴングが鳴るぞ・・・・・」
なぜか顔が赤い永沢太刀。ささらにそれを見られないように前にかぶり出る。若い。
 
 
「あ・・」こちらも別の意味で照れて赤い顔を誤魔化そうと視線を外した桑島秋人が、赤コーナーのセコンド位置にいる荻野紗代と目があった。完全に敵味方エリアに別れてしまっているが、「あなたは敵なの」などと、別段睨みつけてくるわけでもなく、かるく会釈。
あわせて、こちらも会釈する。ほんの短いことで、すぐに視線はリング上へ。
 
 
 
かーんっ!
 
 
 
ゴングが鳴った。試合開始、これで勝者と敗者の生産が開始される。
 
ラインは2本あり、どちらがどちらのラインに乗るのか・・・・・複雑に交差されたそれは今の所、誰にも分からない、読めない・・・
 
 
はっきりいって、文月先生をはじめとする、試合をさんざんこなしてきた実力者から見ると、日比野千歳と桑島夏樹の実力は、そう変わらない、ほぼ同等と見ていた。
 
まあ、そう極端な実力差があればそもそも試合を組まないわけだが、それでも双方の体つき立ち方をみれば、よく練習してきたことが分かる。手元にある日比野はともかく、よそのジムの、しかも代理出場である桑島夏樹が、これに標準をあわせたような気合いが入っていることは嬉しい誤算であった。こと、こうなれば教え子の勝利のみを願うような器量の狭い文月先生ではなかった。強い方が勝て!、それだけである。
 
 
桑島夏樹がリベンジするか、日比野がそれを返り討ちにするのか・・・・・・
 
なかなか、興味深いカードだな、これは。フフフと狼のように笑う文月先生の後ろで、姫条椚とラウンドガールの大城春奈が、地蔵のような目で見ている。どちらが先手をとるのか・・・・もちろん、同輩後輩に勝ってもらいたい二人ではあるが、立場上、大っぴらに応援ができないのが、ちょっとはがゆい。特に、セコンドにつくはずだった大城春奈はじりじりする。
 
 
そして、先手をとるのは、とったのは・・・・・
 
 

赤グローブの右フック!

 
 
日比野千歳だった。ゴングが鳴った直後、突進をかまして桑島夏樹に接近戦を挑む!
 
それは百智の指示だったのかどうか、様子を見る予定であった桑島夏樹の裏をかくことに成功した。きれいに入ったそれは、わたしの方が、一歩さきをいっていますね、という日比野千歳の宣誓のようにも思えた。そんなの認めるものか!とやり返す夏樹の一撃は、かわされ懐に入られてのボディ連打で、じゃあこうやって認めさせてあげます、とばかりに。
 
すこしずつ、すこしずつ、先にいかせてもらいます、と。
 
 
千歳がいきなり押し気味に試合を進める。前座とは言え、先の試合のレベルのあまりの違いに観客は肝をぬかれたように、いまさらながら驚きの声をあげたりしている。
足を止めての打ち合い、という激しすぎの展開ではないが、千歳はあまり距離をとらずに猛然と夏樹に攻めかかってくる。気合いを込めて赤い槍のごとく敵を突き刺しにくる!
夏樹も負けてはいないのだが、いかんせん先手をとられた余波で後手にまわる。押し返そうとしても、千歳の突進力が勝る。打ち合いながらもじりじりとロープ際に押し込められていく・・・・
 
 
あの試合の時と逆のパターンだ・・・・・あの時は、もっとざっくり日比野さんに切り込めたんだけど・・・・先手を打たれても夏樹は冷静さを失っていない。パターンを変えてきた相手に動揺もせず、リズムに呑み込まれることもない。それにしても、意外だった。
日比野さんの方からこう激しく攻め立ててくるなんて・・・・
 
 
あの試合の逆のパターンに持ち込めた・・・・・千歳の方はわりあいに頭がヒート気味にそんなことを考えている。美紗緒ちゃんの指示もあったけれど、これはどうしても押さえておきたかった。まずは、桑島さんのペースを崩すこと。なぜなら・・・・
 
前の試合の時には勝ったけど、あれは運が良かった、といえる。実力ではたぶん、桑島さんの方が上だった。試合の途中、途中でうまく決まったパンチでペースを途切れさせることが出来て、たまたまカウンターが決まったというだけのことで、胸を張っての勝利とはいえない・・・・試合の勝利は勝利だけれど、桑島さんに勝った、とはっきりと言いたい。
 
わたしは、桑島さんに勝ちたい・・・・はじめてのひとだから。
 
再戦すれば、今度は負けるかも知れない・・・・・力からいって、運が味方してくれなければ、今度は自分が負ける・・・・そんな恐れが、心の片隅に、あった。
 
まあ、もちろん、自分が桑島夏樹を、それからその弟を、戯れ言パンチという幻想で大いにびびらせていたことなど、千歳は知らない。表からは伺いにくいものの、かなり興奮気味であった。夏樹の反撃をくらって、鼻血がでようと構わずに、攻め続ける・・・。
 

青いグローブのガードを赤い右ストレートが突き抜ける!!ワンツーが夏樹の顔面をぶっ飛ばし、その身体をコーナーに叩きつける!!逃げ足が止まった獲物を狙う猛禽のように襲いかか・・・・ろうとしたときに、一ラウンドが終了。さすがに2分は短い。
 
 
こうなると、どちらが優勢かはそりゃー、見ている一般客にも分かる。
ちょっと鼻血がでていようと、おっとりお嬢さんのような娘が、快活スポーツ少女を叩きのめす光景というのは、確かに痛快なものがあった。ダウンシーンこそなかったが、迫力もあるし。見せ物というのは意外な方が面白いにきまっている。記念イベント、エキジビション、という面からいうと成功な第一ラウンドであった。
 
 
なんとなく、会場の空気的には、「このままお嬢さんがスポーツ少女をKOさせたら面白いだろうなあ」という雰囲気になってくる。観客は正直なもので、べつに桑島夏樹が憎たらしいわけではないだろうが、なんとなく、そういうことになる。
 
 
・・・・以上、ラウンドガール・大城春奈の分析である。なんせ絶好の位置にいる。
そういうことを考えることで、照れを耐えているのもある。お客さん、私はいいですから、試合を観て下さい。試合を。口笛も写真も要りませんから・・・・くー・・・恨みますよ、先生・・・・しかし観客には笑顔の、顔で笑って心で泣く、できた副部長であった。
 
 

 
 
「やった!やった!、先手必勝作戦、成功だね!」
千歳が戻ってくるなり喜ぶセコンドの百智。まだ勝っていないのだが。
 
「・・それより、鼻血の方を・・・」セコンド補佐である一年生、荻野紗代の方が自分の役目をわきまえている。
 
「あ、そうだった」などと恐るべきコトを平然と言うももちー。童顔とそれにあった子供っぽい言動を持ち合わせていながら、いざ試合となると血を見ずにはおさまらないような百智であるから、それくらいはダメージの内にはいっていないのかもしれない。
それでも一応、文月先生に仕込まれた応急処置で鼻血を止めていく。
 
「はい、鼻が通るー?呼吸・・はい、・すー・・・」「う、うん・・・・」
さすがに、一年生の紗代がやるよりは手慣れている。
 
「あの調子なら、次のラウンドで決められるよ!ちーちゃん、いっちゃえ!いっちゃえ!」
セコンドの戦術アドバイスというよりは、これでは単にけしかけているだけである。
 
「・・・・・・」
千歳の答はない。さすがにこの無神経な言いぐさがカンにさわったのだろうか。
 
「ちーちゃん、どしたの?浮かない顔だけど」
 
「ん・・・なんでもない・・・」
これが高梨美月や文月先生、大城春奈ならばこの「違和感」を素直に口にできたのだろうが、ももちーと紗代ちゃん相手ではそれもちょっと憚られた。たぶん、気のせいだ。
 
 
一ラウンド終了後、コーナーに戻るとき、桑島さんがこう言ったような気がしたのだ。
 
 
「あれは、違ったのかな・・・」
 
と。不思議そうに。
 
 

 
 
第2ラウンド
 
 
さっきのラウンドの巻き返しと、リズムとペースを掴むために、今度は夏樹の方が猛然と殴りかかってくる・・・・というのを予想していた千歳は、それが裏切られたことに、さきほど感じた違和感をあわせて、少し肩に重みを感じた。錯覚ではあるが、試合では、リングの上では、それは形すらある真実。
 
 
距離をとって夏樹と対峙する。
距離をとって千歳と対峙する。
 
 
その殴られることのない絶対距離を、互いの領域を、ジャブで侵食しあう。
ボクシングの定番とも言える戦闘パターン・・・・フットワークの駆け引き、千歳の得意とするところだった。じりじりと距離を測りながら・・・・踊るようにリングをつかう。
じきにその踊りは破綻を始める・・・・リズムが狂い、一方が一方を呑み込んでしまう。
すなわち、赤が青を。青が赤に。
 
 
赤のストレートが、夏樹の頬に突き刺さる、はずだった。が、
その一撃はかぶせられて、青の一撃が千歳の顔面を思い切りぶったたいた!。
さらに続けてもう一発!!たまらず、そのままダウンさせられる千歳。
 
 
「ダウン!」レフェリーの声にどよめく観客。まさか、というか、やっぱり、というか、運動の得意そうなのが本気を出してきたのかー、という感じで、目の前で展開されたダウンシーンに沸く。
 
 
「やった!」ガッツポーズの桑島秋人。やはり姉さんの方が強い!。日比野千歳はそれほど化け物みたく強くはない。文字通りに、噂ほどではない!。
「まあ、まだまだだけどね」何に対してそう言ったのかは分からないが、渦マキがぽん、と秋人の肩に手をおく。「普通に強いねえ、あれくらいならナッキーが勝つかな」
 
 
「立てー!ちーちゃん、やりかえせー!」
赤コーナーのセコンド百智美紗緒が声をはりあげる。それに応えて、ゆるゆると立ち上がる千歳。自分のタイミングでとらえた、と思っていたからあっけにとられた。ダウンしたのが一瞬、よく分からなかった。青い天使の輪(エンジェルハイロゥ)が点滅した、くらいにしか。
それでもいつまでも尻餅をついているわけにもいかない。
 
 
試合続行
 
 
自分の得意パターンでいっぱいくわされたことのショックがあったが、それにつけこまれるわけにはいかない、と速度をあげて切り込んでいく千歳。ジャブでの丁々発止のやり取りはやはり今回も自分に分がある・・・・・っ。左フックがいい感じに決まった!!
そこから、さらに顔面にいく!と見せかけて、ボディへ!ボディへ!連打を入れる。
 
 
「くっ」うめいて夏樹の体勢が崩れる。ガードが離れて大きな隙ができる・・・
チャンスだ、桑島さんはボディがあんまり強くない。ダウンもとられたし、ここは攻め時・・・・千歳の拳に力が入る。アッパーカットの体勢に入った時、夏樹がふふ、と口元に笑みを浮かべたことに気づかない。
 
 
ひょい
 
 
相手の顎を激しくカチあげるはずの赤のアッパーはあっさりとかわされて。その動きは呻いて体勢の崩れた者ができる速度ではない。誘われて、そして誘いにのってしまったのだ。
それに気づいた相手に反省させて対処する方法を考えるほど夏樹も悠長ではない。
どころか、それは青い稲妻のようだった。
 
 
ずどん!!  

 
千歳の腹にめりこむ青いグローブ。「がはっ」演技でも誘いでもなんでもなく、腹部に埋め込まれた破壊力にたまらず吐き出す呼吸とマウスピース。身体がくの字に折れて、そこから発する苦の一字。そして、横たわる。足に力が入らなくなれば自然、そうなる。
 
 
「ち、ちーちゃん!」赤コーナー、セコンド百智から悲鳴が上がる。やられた千歳はもちろん声どころか息が苦しい状態であるからその代わりだろう。壮絶なダウンに観客もザワザワざわめく。
 
 
これが、現在の二人の力の差であった。
 
 
いろいろと場数を重ねてきた夏樹が学んだのは実践的なフェイント技術で、その点においては千歳と大いに水をあけていた。相手の攻撃が効いたふりして、力ませてその隙をついて逆襲、という芸当は基本的にお嬢様の千歳にはちと難しかった。
 
即ち、当初桑島姉弟が気にしていたが、実力は均衡しており、なおかつそういった試合経験、試合運びの技量で夏樹が一枚上手である以上、勝利するために力で押し切らねばならないのは千歳のほうだった。そして、均衡した伯仲した実力でそれを成そうというなら、運や流れといったものを味方につける必要がある。
 
 
ラウンド中に2回のダウン。なかなかこれは決まったようなものだった。
あと一回ダウンすれば、千歳の負けとなる。が、この苦しみようだとこのまま立ち上がることも危ないかもしれない・・・・。
 
「ちーちゃん、立てー!ここで負けたら美月ちゃんにあわす顔がないぞー!!」
無神経なようでいてツボをつくことを言って自分の選手を立ち上がらせるセコンド百智。
 
 
「・・・・・く」しばらく薄くなることもないだろう苦悶の表情のまま、なんとかファイティングポーズをとる千歳。だが、なんとかゴングに救われた。完全に試合ペースをもっていかれた。
 
 

 
「疑惑は晴れた?」
セコンドの理保ママがそんなことを聞いてきた。
うがいをしているので答えられない夏樹。
 
「うん、たぶん何か違う話だったんじゃないかな・・・」
水を吐き出してから、血の味がする、と思いながら夏樹は答える。
ダメージがないわけじゃない。スピードもパンチ力もある、日比野さんは強い。けれど。
 
「たぶん、このままいけると思う・・・・いや、いく」
拳に残るボディの感触。あのままテンカウントになるかとも思ったけれど、日比野さんは立ち上がってきた。打たれ強さは自分より上なのかもしれない・・・。そうは見えないんだけどな・・・・ぼーっとそんなことを考えながらマウスピースをはめてもらう。
 
この結果は、練習の成果だろうか。
 
自分より軽くて早い階級の、ささらちゃん。
自分より重くて長い階級の渦ノ屋さん。
そして、「だーるね」が口癖の、まさに鉄壁の守備力をもつ金城さん・・・・。
 
一人で悩んで悶々しているよりは、と招きに応じてやってきた海の上のジムでの特訓。
突拍子もなかったけれど、それが必要だとあの時は思ったし、たぶん正解だった。
ほんの少しでも遅ければ、動きが鈍ければ、鋭さを欠いていれば、間合いを誤れば、ダウンを2回、または3回くらっていたのは自分だった。
 
差があるにしても、それだけきわどい差。油断なんてできるはずもない、僅差。
 
 
けれど、試合の流れは自分にある。こちらに完全に引き寄せた。
 
いまさら、挽回なんてさせない。勝利はこっちのもの。わたしのものだ。
 
日比野さん、あなたは負けるの。わたしに負けるの。今日、ここで。もうすぐ。
 
夏樹の眼の光が、強くなっていく。
 
 

 
 
第三ラウンド
 
 
両者とも何かを覚悟したように、リング中央で足をとめて殴り合う。
 
意地のぶつかりあい。意志のぶつかりあい。先ほどの巧さを見せた桑島夏樹にしてみると、そんなのは己の利点をわざわざ減じているようなまずい攻め方であっただろう。
だが、それでも、そうしてみたかったのだろう。セコンドの理保ママはただ見守る。
セコンドの百智はひたすらに声援で勇気の補充をして、千歳の背中を押し続ける。
 
 
互いに一歩もひかない。消耗の激しい戦い方だが、どうせ長いこと闘えるわけでもない。
このエキジビションマッチ自体が5ラウンドまでなのだから。試合の内容を知り合いに伝えるのか、二人の迫力が無言のうちに周囲に波及するのか、会場にはどんどんあとから人が入ってくる。それとも、あの遅いバスがようやく到着したのかもしれない。
 
 
赤く腫れてくるふたりの顔。そのうちに身体のあちこちに内出血が青く浮かんでくる。
気の弱い人間なら顔をそむけて泣き出してしまいそうな光景だが、それでも観客は目を離せない。技術的にも作戦的にもプロの試合には及ばないが、それでも惹きつける何かがある。今や、声援は赤コーナー、青コーナーに分かれて五分五分。会場を二つに割っている。
まるで運動会の応援合戦をおもわせた。赤勝て、青勝て。その中でも名を呼び叫ぶ者も。
「夏樹さーん!がんばってー」「日比野せんぱい!」「ナッキー、いけいけーあんたが大将!」「ちーちゃん、そこだ押し返せー!たたきこめー!」「姉さん!!」
 
 
「くぱっっ!」
さすがに前のラウンドのボディのダメージが累積赤字を示してきたのか、千歳がやられだした。攻撃の手数が減れば、その分、相手の攻撃が比例して増加してくる。足を止めての打ち合い、というのはいわば決戦であり、撃ち込まれてくれば、どうしてもガードに回ってしまいさらに攻撃の手数が減る、という悪循環に陥る。相手の息があがるのを見越して反撃を狙うか、体力を無駄に使わしてあとで大反抗を企むか、それが出来るのも、コンクリートの匂いがしそうな、夕立のごとくバラバラふってくる夏樹の攻撃をしのぎきれたら、の話である。2ラウンド時のツケがある分、先に消耗したのは千歳であり、我慢比べのようなこの打ち合いを制するのは・・・・やはり・・・
 
 
「これで・・・・眠れっっっ!!」
夏樹のその一撃は、青い寝台特急(ブルートレイン)。重く走るわりには人を眠らせる。
眠っていても、確かに目的地に連れていってくれる。日比野千歳を乗せて、おそらくは、北へ。この場合は「力負けした敗北」か。
かといって、勝南という単語はないから不公平な話である。
 
 

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