ぴーこさん江 石龍作
 
 
ちーちゃんの戯れ言パンチ
 
 
第五らうんど
 
 

 
 
試合当日に、なってしまった・・・
 
 
結局、桑島秋人の姉である夏樹は、試合当日まで家に帰らずに、そのまま「友人宅」に泊まり込みで、そのままそこから試合会場に行く、ということで秋人に会うことがなかった。当然、その間、携帯電話等、連絡は不可とされていたので、話す機会すらなかった。
仲のよい姉弟の間でこれだけの日数、話さなかったことは極めて稀であり、それがよりによってこんな時でなくていいのに!と秋人は歯がみして悔しがるのだが、姉の方で連絡を断絶していたのだから仕方がない。それだけ真剣で、集中を妨げられたくない、という心境であるのだから、そりゃ単なる逃避や気分転換の遊びに行ったわけではないのは分かるが、それにしても歯がゆかった。しかも、いっそ直接追いかけてみようかとも思ったが、両親がそれを教えてくれない。近くの、同じ部活の友人などではない、かなり遠くに住んでいるらしい、自分の知らない姉の友だち・・・・謎の交友関係・・・・スポーツなんてやっていると社交家でなくとも、意外にとんでもなく遠い交友距離をもつことがある。
友あり、遠方より来る・・・・漢文の論語じゃあるまいし。
 
 
1,2,の答はほんとにどーでもよかったが、疑惑その3、の答だけはなんとしても、姉に教えなければならない・・・・そのためには、姉が会場入りする前にすでに自分が会場に入っていなければならないわけだが・・・・・そのために前日から会場前でキャンプすら厭わない桑島秋人であったが、それもできなかった。
 
 
なんと、今回の姉の試合のセコンドに、理保ママがつく、というのだ。たまに、部活の話などで姉に向かっていやに詳しいつっこみをいれたりする時があるけれど、まさか母親がそこまでボクシングを知っているとは思わなかったから、大いに驚いたが、なおかつ、さらに驚いたのは、「そういうわけで、お留守番をたのむわね」と、試合前日の家の留守を任されたことだった。父親の冬樹パパの撮影についていくのはいつものことだとしても、そのまま試合当日、姉と同じように家に帰らずに会場入りする、というのだから。
言うまでもなく、冬樹パパは娘の晴れ姿を激写しまくるのだろう。
そうなると残された秋人としては、当日の朝、飼っているペットたちの世話を全部やってから大急ぎで隣の県の試合会場に向かわねばならない、という慌ただしいことになった。
 
 
帰りはたぶん、家族全員そろって父親の車で帰宅、ということになるのだろうけれど・・
 
行きの足は当然、電車メインに、あとはバス、中学生の資金力ではかなり苦しいが、またはタクシーということになる。電車はいい、桑島秋人はそう頭は悪くないので迷うこともなく時刻表を読みこなし、可能な限り早く着く線を選び出し、それに間違いなく乗る。
 
 
そこまでは、よかった。
 
 
だが、問題は途中の道であった。おりしもイベント日和の日曜日であり、天気も快晴、これで道が混まないわけがなかった。向かう先の”大人も子供も痩せられる運動健康ランド”(なんかオープンまでに愛称が公募で決まったらしいが桑島秋人の知ったことではない)とやらがよほどの大失敗というのでなければ。それだけ姉の試合を観戦するであろう人間の数が多い、というのは喜ばしいのか誇らしいのか、売れないマジシャンが寂れた遊園地で行う公演のような有様でないよーなのは、たぶん、いいことなのだろう。
一日で3キロ落ちなかったら入場料半額返し、という強気の宣伝文句の影響があるかもしれない。駅から会場に向かう、本日限りの無料シャトルバスの中にはいろんな人間がいた。老若男女、とりわけ太った者ばかりではないから、その他の企画イベントの効果だろうか、桑島秋人のちょうど隣に座った小柄な、同学年くらいだろうか、わりあいにかわいいポニーテールの娘が「本日のエキジビション・マッチ」というパンフレットを開いて読んでいた。桑島夏樹 対 日比野千歳 、のカードもあった。顔写真はついてなかったが。
大人しそうな顔の割に格闘技、というか、ボクシングなんかに興味があるんだなーと、自分の姉のことを棚にあげてそんなことを思う桑島秋人であった。
 
 
だが、バスが遅い・・・・・
 
 
無料とは言え、遅すぎる・・・・・・こんな記念イベントの日はマイカーではなく、公共の交通機関などを利用してほしいが、道が混んでいて、遅すぎる・・・・。
 
 
もともと、スケジュール的にハンデがあり、計算してみるとギリギリなのだ。
その計算も道がスムーズに流れることを想定してのもので、こうなるとかなり予定が狂ってくる。ただ会場に辿り着けばいい、という他の客とは違い、とにかく姉と会って話をしなくては意味がないのだ。試合という興行側に位置する姉と会うには、しかも前座であるから順番が早いし、控え室に入る前には・・・・いくら家族でも母親のようにセコンドにつくわけではないから、通行証など手に入らない。かなり急ぐ必要があった。
 
 
理保ママには疑惑その3、の正体を話してあったが、たぶん、姉には伝えないだろう。
 
そんな確信がある。親には親の考えがあるのだろうけれど、弟には弟の考えがある!
 
 
日比野千歳の戯れ言パンチに、惑わされて姉さんが負けるなんて・・・・我慢がならない!
 
 
・・・・・それにしてもバス遅い!!遅すぎる!!このままじゃ・・・・腕時計を見る。
 
焦りがつのる。かりっ。苛立ちに鳴った歯の音が聞こえたのか、隣のポニーテールの娘が不思議そうな顔で見る。それからすぐに納得したような顔になり、
 
「バス酔いしたのなら、窓際に変わってみる?」
 
そう声をかけてきた。
 
 
「え・・・?いや、そうじゃないから・・・・ありがとう・・・・」
 
このところ、誤解されることがおおいな、と。それでも悪い気はしない桑島秋人である。
 
 
「そう?遠慮しなくていいんだよ。私たち、ここで下りるから」
 
ポニーテールの娘は奇妙なことを言った。これは普通のバスではなく、会場に直行する、仕立てバスなのだ。無料なのをいいことに途中まであい乗りしようにも、入場チケットがなければ乗れない。このバスに乗っている限り、入場チケットは持っているはずなのだ。
・・・・あんまりバスが遅いんで、いやになって帰るのかな・・・?見かけによらず、けっこう短気なのかな・・・・・そう思った時、
 
 
「たっちゃん、マキさん、ここから走りましょう、このままだと夏樹さんの試合に間に合いませんよ」
ポニーテールの娘は、連れなのだろうか、向こうの席の白銀の髪の少年と、髪が渦を巻いた、目つきがただ者ではない女に声をかけた。たぶん、二人とも高校生くらいだろう。「ここから走る」、というのはたぶん、健康運動ランドまで、という意味だろう。
 
「そうだねえ・・・・・そうしよっか。太刀君も異存ないでしょ?」
「もちろん」
答は平然と。二人がすっと立ち上がる。
 
車内がちょっとざわつく。それだけ走ればで十分痩せられるじゃないか〜!、という顔である。ここからだと、きつい坂もあるし、かなり燃焼系アミノ式なコースであり、そんな運動しなくても、と呆れるような、感心するような雰囲気になる。
 
「あ、前をごめんなさい」
立ち上がって真ん中通路にでていくポニーテールを見上げながら桑島秋人も同じように感じた。が
 
 
それよりも聞き逃せない言葉が、単語が、名前があった。
 
 
夏樹さんの試合・・・・・夏樹・・・・・試合・・・・・・
 
 
本日の試合の出場選手に、他に夏樹、という名前はない。それはあの娘のパンフにもある。
 
 
「運転手さん、すいません。私たち、関係者じゃないんですけど、今日のイベントに出場する人の忘れ物を届けにきているんです・・・・で、そういうわけで勝手なことをいうんですが・・・・ここで下ろしてもらえませんか?」
ポニーテールの娘が運転手に丁寧に頭をさげる。
 
「遅いのはこっちが申し訳ないくらいで、それはかまわないけど・・・・いいのかい?」
近頃には珍しい感心な娘さんだねえ、と顔にかいてある運転手。
 
「はい。走るのは慣れていますので。大丈夫です」
にこにこと答えるポニーテールの娘の言葉に、なぜか車内に拍手が沸く。
「がんばれ!」「がんばって!」と合いの手も。
「ありがとうございます」それに律儀に応じるポニー娘。
「それじゃ、もし途中で道が空いて追い越すことになっても、拾ってあげるからね」
運転手はそう言って、運転席横のドアを開いた。もう一度お礼を行ってそこから軽やかに下りるポニーテールの娘と、それに続く白銀髪少年と渦巻き娘。身ごなしからいって、三人とも運動神経は良さそうだった。・・・・
 
 
腕時計を確認する桑島秋人。そして、姉の名を口にした娘が走り出そうとしている・・・。
 
 
「ぼ、僕も下ります!」桑島秋人が手を上げて、あたふたとそれに続いた・・・。
 
 

 
 
「あー、今日の日比野のセコンドは・・・・」
 
 
控え室にて勢揃いさせたボクシング部の教え子たちを見回して、文月先生は微妙な間をおきながら・・・・まるで、だれにしようかな、てんのかみさまのいうとおり、とでもやっているような間である・・・・
 
 
「百智!お前に任せる!、補助として荻野をつける」
 
 
そして、雷のようにご指名をかます!指名された当人は喜んでいるが、その他全員がギョッとしている。
 
 
「全知全能を尽くして日比野を勝たせるように、いいね!!」
「はーい!がんばりますよー!!がんばろーね、千歳ちゃん、紗代ちゃん」
「え、ええ・・・・」
「は、はい・・・・」
 
これは決定事項であり、取り消しは効かない。なんせ文月先生が決めたことだから。
なにか深い考えがあるのだろう、というわけではない、単に文月先生が決めたからだ。
 
 
「あの、先生」
 
だが、まあその理由を聞いて多少なりとも日比野さんの動揺を抑えるくらいのことは許されるでしょう、と副部長である大城春奈が代表質問する。役割分担からいって、自分にその役が回ってくるものだと思っていたのだが。今回のいささか高校生らしくないイベント試合に引きずり込んだ張本人は文月先生である。このイベントの企画者と知り合いらしいが、プロである美月を出場させてみたり、アマチュアである日比野さんを出してみたり、かなり深く、企画の基本段階から関わっているようだが、かといって大っぴらに名前を出しているわけでもなく、それでいて文月先生的に自由度が高いというか、勝手にというか、エキジビションなのにヘッドギアもない、というのはどうよ?という感じであり、部の顧問でありながらこのイベントだけはセコンドとしてびったり張り付いていられない、という事情も分かる。仕切人の一人として全体をみる位置にいなければならないのだろう。
美月には、所属ジムの会長さんを筆頭に、杏香とリサが補佐としてセコンドがつくことになっている。なにせメインのひとつであるし、相手もプロであり、イベント試合とは言え、おろそかなマネはできない。プロともなれば負けて経験、なんてことを言ってられない。
 
 
かといって、日比野さんの布陣はちょっとあんまりなんじゃないでしょうか、と思う。
 
経験させすぎ、というか。試合開始前に選手を不安に陥れてどうするんですか、と思う。
 
対戦相手がよほど弱いというなら、ともかく。
 
・・・・・弱いんだろうか?文月先生がこういう判断を下したというのは。
 
百智をセコンドにつけたら「突進」しか指示を出しそうもないし・・・・
 
それで勝てるような相手なら・・・・・最近の日比野さんの実力の伸びは目を見張るし。
まあ、エキジビションだからそう勝ち負けにこだわらなくとも、経験第一なのかもしれない・・・そういうお考えなのかも。冷静沈着な大城春奈はそのようにまとめをつけようとした。普通の人間に文月先生の考えることはどうせ、分からないのだから。
 
 
そして、問題は手の空いた自分になんの役をまわしてくるか、なのだが・・・・・・
 
 
「大城、お前の言いたいことはだいたい分かっている・・・・」
 
なぜか、先の決めつけご指名の時とは打ってかわって歯切れが悪くなる文月先生。
 
なんかイヤな予感がした。この先生は確かにとんでもない実力をもっている、小さなことにかまわない、大器量の人だと思う。近くに師事できたことはとても幸運なことだと感謝もしている。けれど、時たま、本当に予想だにしないことを唐突に言い出すことがある。それは始末におえないことに、頼み事、という形でこっちにやってくるのだ・・・・
 
 
「お前にやってもらいたいこと・・・・やってもらわないといけないことがあるんだ・・・・これが」
下手に誤魔化したりしないのが救いだが、厄介なことには変わりがない。
 
皆の視線が、副部長に集まる・・・・・同居しているだけに、なにか予感があるのか高梨美月が合掌して、ご愁傷様です、とつぶやく。
 
 
「大事な役目ではあるんだ・・・・おそらく、”この役”を行う者がいないと、観客が黙っていないだろう・・なんというか、間がもたない・・・・あたしとしたことが、つい、うっかりしていた・・・・事、ここに及べば、頼める人間は大城、お前しかいない。その”実力”からして・・・・」
まさかレフェリーをやれなんてデタラメはいうまい。やろうにもさすがに資格がない。
確かにルールは熟知しているが。「そういうわけでだな・・・頼む」
 
 
「はい・・・・何をすればいいんでしょう」そう言われると肯くしかない、が・・・
 
 
 
「ラウンドガールやってくれ、全試合」
 
 
 
「はい?」その場にいる部員一同、声が揃う。なにをいってんの?、この人?、というまなざしで顧問を見上げるが、口にしたことで吹っ切れたらしく、平然としている文月先生。
 
 
「どうも観客スジも玄人ばかりじゃないしなあ、というよりほとんどが一般客だしな。他のイベントもけっこう面白そうだったんでなー、下手に間をおくと客をとられちまう可能性がある。インターバルでも、リングの上でなんか動くものがいないとな」
とても生徒に語るような話ではないが、文月先生は大まじめだ。
それとしても、”なんか動くもの”とかいうホラーな表現はやめてください。
 
 
「はあ・・・・わかりました。お引き受けします」
大城春奈はさすがに副部長だけに、物わかりがいい。さすがに全員でつっこもうとしたところをその一言で止めてしまった。
 
 
「そうか、そうか。さすがは大城、そういってくれると信じていたぞ。久木野や荻野じゃまだちょっと若すぎるからな」
そう言って豪快に笑う文月先生。最早、なにを言っても無駄である。
 
 
「えらいことになったな・・・・・」ぽん、と副部長の肩に手をおく部長の徳川杏香。
「貴重な経験になりそうね・・・・」嘆くでもなく、クールに返す大城春奈。
 
 
「それじゃ、あとは任せる。大城、久木野、ついてこい!」
一方的に人数割をすませると、文月先生は運営用に2名連れて控え室を出ていった。
姫条椚はすでに連絡役など、文月先生直下としてこの時点ですでにコキ使われている。
 
 
試合はあくまで選手がやるもので、セコンドの能力で決まるもんではないが・・・・
 
百智 美紗緒(ももち みさお)通称、「ももちー」、と、荻野紗代の2年、一年コンビ。
お世辞にも頼りがいがある、とは言い難い。これが冷静沈着副部長、大城春奈がバックについているのとでは安心感がだいぶ違うだろう。応急処置の技量の差もある。
 
いい加減ひどいといえばひどい話であるが、控え室を出る時に大城春奈が見たところ、日比野千歳は落ち着いていた。精神集中に入っているのかもしれない。
 
このチームの組み合わせがどう転ぶかは分からないけれど・・・・・
 
たぶん、先生が日比野さんに求めるているのは・・・・・人に頼らず、孤独の中で戦うこと・・・そういうことではないのか。自らの才覚を最大限に発揮するには。
 
 
後輩の、仲間の勝利を願っている。対戦相手は桑島夏樹・・・・・・確か、日比野さんの初試合の相手だったか・・・・なかなかの因縁だけれど。また、勝負を制することを祈りながら。
 
 
「・・・・ラウンドガール、か」
ため息がでないといえば嘘になる、副部長であった。
 
 
それもまた、孤独な戦い・・・・
 
まるで戯れ言。
 
 
 

 
 
「そいつ、置いていかないと間に合わないぞ、ささら」
 
「たっちゃん!、そんなこと言わないで。大丈夫、そんなことない、まだ間に合うから。秋人くん、がんばって!」
 
 

坂道の途中でゼイゼイいってる桑島秋人をもうちょっといったところで待っているバスから下りた三人、ポニーテールの娘、白銀髪の少年、渦巻き髪の娘。三人とも鍛えてあるらしく、ほとんど汗もかいていない。銀縁眼鏡をずらして荒い息を吐き、心臓をバクバクいわせていまにもぶっ倒れそうな桑島秋人とは別世界の人間のようである。

 

 
 
「太刀君はささらが行かなきゃ行けないし、ささらは桑島秋人くんを見捨てていける性格じゃなし、そして時間は無情に過ぎているし、どうしたもんだろうかね」
 
「まあ、バスには追いつかれていませんから、走った意味はありますけど」
渦巻き髪の、渦ノ屋マキと、白銀の髪の永沢太刀が、覚めた目でポニーテールの七織ささらと桑島秋人を見ている。
 
「マキさんはお先にいかれたらどうなんですか」
 
「まあね、一ラウンドで終われば二分なわけだし。でも、渡すべき忘れ物はささらのリュックの中だから」
 
「・・・・・自分で渡す、と決めたからにはやり通す・・のが、ささらですしね・・・」
 
「そういうこと。それにわたしはべつだん、ナッキーの応援が主目的じゃないんだよ。トリックの解明の答え合わせをしにきたんだ。疑惑1,2,3,のね。極端な話、試合のビデオを見れば事足りるから慌てることはなにもない」
 
 
荒い息の中で、これまた偶然に姉の「友人」にでくわしたことについて想う桑島秋人。身体がきつさを忘れようと違うことを考えるようにしむけているせいかもしれない。
 
 
この三人、ポニーテールの娘が七織ささら、白銀の髪が永沢太刀、渦巻き髪で目つきがただものではないのが渦ノ屋マキ、この中の七織ささらさんと渦ノ屋さんが姉と同じくボクシングをやっているのだという。何かの大会で知り合ったらしいが、詳細を聞いている時間はない。ただ、姉がこのせっぱ詰まった時期に、訪れるくらいに信用されるだけの実力がある、というのは分かる。中学、高校の差はあってもあの体力は一般生徒のものじゃない、と桑島秋人は思う。自分を待たなければ、とっくのとーに会場に到着しているんじゃないのか。それなのに、初対面の、自分をこうして励まして、待っていてくれる・・・この律儀さは確かに姉に一脈通じるものがある、と思う。だからこうして、心臓が破裂しそうになりながらも、足は止めずになんとか走り続けていられる。でも、きつい・・・。
 
 
試合当日になるまで、姉は家を離れて、この人たちと一緒にいた。
おそらくは、環境を変えてみて気分を切り替えて練習に打ち込んでいたのだろう。
結局のところ、自分が心配するほどには姉さんは悩まなかったのかもしれない。
早々に気持ちを入れ替えて、試合に向けてできることをやろうとした・・・・
 
 
「海の上のボクシングジムで練習していたんですよ、お姉さんは」
七織ささらさんは、そんなことを言っていた。なんのことかよく分からないけれど。
 
「あれだけ熱心に、一心不乱に練習したなら、きっと勝てますよ」
そういってくれたから、それでいい。・・・走る途中で息が続かないのもあるが。
 
 
「・・・・姉が、お世話になりました・・・・」
 
「あはは、毎日お魚ばっかりでしたけど、喜んで食べてもらえましたから。わたしも楽しかったですよ、夏樹さんと一緒で」
姉さんも人の家にいきなり転がり込んで、とは大胆なマネをしたもんだ、と思ったが、この笑顔をみてそんなのも氷解する。たぶん、姉さんは充実した時間を送っていたのだろう。悶々としたこっちと違って。喜ばしいような、ちょっと腹立たしいような。
 
 
「うん、ナッキーはかなり腕をあげていたよ。以前は得意のインファイトばっかりだったのが、戦い方に幅がでてきた・・・・けどまあ、まだ防御が甘いかな、と」
「マキさんのコークスクリューはちょっと別格ですから・・・・」
渦マキと太刀も姉を認めてくれるので、ちょいと照れる桑島秋人。だが・・・・
 
 
「2日目だったっけ、まともに顔面真正面に入っちゃって、ぴくりとも動かないの。
あんときはちょっとびっくりしたかなあ・・・」
ぬけぬけぬかす渦マキに
 
 
ぴかー!
おい!!!!!銀縁眼鏡を巨大化させて宇宙人系の威嚇をする桑島秋人。
 
 
「あれはオーバーワーク気味だったんですよ、はじめの日にがんばりすぎてましたから。ダメージを吸収する足が働いてませんでした。棒立ちでマキさんのパンチをもらえば誰だってああなりますよ」
 
それは正確な指摘なのだろう、その一言で桑島秋人が冷静に戻る。
 
「だとしても、普通は手加減しますけどね・・・容赦無しですよマキさんは。道場破りじゃないんですから」
永沢太刀の冷たい一言が加わる。
 
 
「でも、それ以降は距離の取り方が格段にうまくなったと思うよ?まあ、こういうこともある。結果OK牧場」
ここまでさばさばしていれば、逆に怒りようがない。桑島秋人は追求をあきらめる。
姉さんもけっこう酷い目にあってきたんだね・・・・だけど、最後の一言はゆるせんよーな気も・・・・
 
 
・・・・・・・・
 
 
「あ!建物が見えてきましたよ!秋人くん、もう少しがんばろ!」
ささらの声で意識がもどる。足は止まっていなかったから、距離はかせいでいたらしい。
息が苦しい。時間を確かめる間も惜しい。ラストスパートだ!桑島秋人が、ヨロヨロと駆ける。メロスのように。メロメロと。
 
 

 
 
「秋人にはわるいことをしたかもね」
 
 
控え室で、娘の夏樹にバンテージを巻いてやりながら理保ママがそんなことを言った。
その手つきは慣れたもので、どうみても経験者だが、目の前にある大きな胸のことをおもうと、ほんとに経験者だったのかなあ・・・・とも不思議がる桑島夏樹であった。
 
 
「?留守番くらいはもうちゃんとするわよ、中学生だもん」
もしかして、かなり鈍い部類に入るかもしれない娘の受けに苦笑する理保ママ。
 
「そういうことじゃあ、ないんだけどなあ・・・・はい、できた」
そうやって微笑む表情はいかにも若々しい。今でもこれなら、これで20くらいの時はどうだったのだろう・・・社会問題の一つや二つ、引き起こしていたのではあるまいか。
父親がそんな母のハートをゲットしてくれなければ、自分と秋人はこの世にいないわけで。
 
 
いやいや、試合前だから、そういった難しいことは考えないようにしよう。
集中、集中だ・・・・日比野さんのことを考えよう・・・・・日比野さんの成長ぶりを・・・・どのくらい強いのか・・・・その片鱗はこの耳で「聞いた」。この目で見た、っていうのじゃないのがあれだけど、実際そうなのだから、仕方がない。
 
 
まあ、すごく強くなってたみたいだけど・・・・・
こっちもちょっとはがんばってきた。あとは、やるだけだ。
 
 
作戦とか、あの奇妙な現象についての対策などはとくにない。リングにあがればグローブを交えてみれば、そんなことは頭から吹っ飛ぶにきまってる。
それがいいのかわるいのかは別として、桑島夏樹は気持ちをカッチリ切り替えていた。
また、ぐじぐじ迷っていたら、ささらや渦マキ相手に大けがしていただろう。
 
 
精神集中、精神集中・・・・・試合の前にいつもやる「あれ」を・・・・・
傍らに手をやる。いつもの習慣ではすぐ近くに置いておく。
 
 
あれ・・・・・?あ、そうか、カバンからまだ出してなかったっけ
 
 
「おかあさん、わたしのバッグの中から”あれ”とってくれる?」
 
「”あれ”・・・?ああ・・・・はいはい、・・・・あれ?入ってないわよ」
 
「え?・・・・・どうしたんだろ・・・・あー、まさか、ささらちゃんの家に・・・・」
 
「忘れたの?あらあら・・・」
 
 
「・・・まあ、いいや。今日はこうやっておかあさんはセコンドにいてくれるし、お父さんも会場には来てくれるし。秋人が・・・しょうがないよね」
スポーツ選手にとって試合前のこういった精神集中のための儀式は重要だったりする。
それで勝敗が左右される、とまでは言い過ぎだろうが、リズムを整えたりその効果は決してバカにできたものではない。
 
 
「・・・・じゃ、今日はこれでがまんして、ね」
 
理保ママがそっと近づくと、夏樹の頬にキスする。勝利祈願の口づけ。現役の頃にはそりゃもうバリバリな効果があったものだ。思いもよらぬそれに、かーっと赤くなる夏樹。
 
「がんばってね」
 
その笑顔に、ぐーっと戦闘意欲が盛り上がってくる夏樹。まさに最強のチア・マザー。
迷いも不安も一気に振り払われた。その目がどんどん輝きを増してくる・・・・大海を切り裂くスクリューが回転をはじめる・・・・そんなイメージで闘気が膨れ上がってくる。
 
 
絶対に勝つ!!日比野さんには負けない!
 

 

己の意志を再確認して、強く心に焼きつける。

 

そして、呼び出し(姫条 椚)がかかり。試合の時間になる。

 

 

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