彼女のステージ

 

 美紗緒の心臓は、早鐘のように鳴りっぱなしだ。コーナーポストで両のロープを掴んで幾度となく呟く。

「おちつけ〜。おちつけ〜。おちつけ〜。おちつけ〜・・・」

 美紗緒の気の静まらぬうちに、反対のコーナーからかわいらしい声が響いた。

「よーし。じゃあゴング鳴らしますね〜」

 美紗緒はバッと振り返り、ぎこちなくコクコクと頷いた。

(ああ・・・やっぱり本物だよ〜)

 彼女の対角のコーナーにしゃがんでゴングの準備をしている少女。美紗緒が何度見返しても、やっぱり彼女はボクサーアイドルまどかその人なのだった。

 

 その日美紗緒は一人贈れて部室へと向かっていた。期末テストで赤点をとったため、その補習を受けていたのだった。

「あー、もうこんな時間だ・・・。皆ロードワークに出た頃かな」

 部室のドアに手をかけた時、中からサンドバッグを叩く音が聴こえた。

(他にも仲間がいたのかしら?)

 美紗緒は軽く期待しながらドアを開けた。

 その音にサンドバッグの少女が振り向き、出入り口の彼女と目を合わせた。

「よかった〜。やっと人が来てくれました」

 聞き覚えのある声だった。見覚えのある顔だった。テスト前にもカラオケで彼女の歌を歌った。それでも、目の前にいる人物が信じられず、美紗緒は目をパチクリさせた。

「あの・・・。聞こえてますか?」

 少女は美紗緒に近づいて、深くお辞儀をした。

「あ、勝手に入ってごめんなさい。私まどかっていうんですど・・・知っていますか?」

 少女の名を聞いた時、美紗緒の手からするりとカバンが滑り落ちた。

 

「・・・という訳で、マネージャーがスパーリングもさせてくれないんです。だから女子がいそうなジムを探して逃げ回ってたんですよ」

 ベンチに腰かけ、まどかは早口でまくし立てた。三日後にTV出演を控えているため、スパーを禁止されているらしい。

「で、でもまどかさんアイドルなんだし・・・」

「私も一人のプロボクサーです。顔のアザなんて気にしていられません!」

「う・・・」

 もっともな話なのかそうでもないのか。美紗緒は言葉に詰まった。

「さっそくですが、スパーの相手お願いします。あ、ヘッドギアは無しで」

「へ? えええええ!?」

「試合も近いので、実戦の感覚掴んでおきたいんです」

「いやそんな先生だっていないのに・・・」

「私を助けると思って、お願いします!」

 まどかは美紗緒の腕を引っ張って立たせると、更衣室の中に押し込んでしまった。

 

(結局リングに立ってしまった・・・)

 目まぐるしい展開にクラクラしながら、美紗緒はゴングの音を聴いた。

「アイドルだからって、遠慮はしないでくださいね」

 じりじりとまどかが近づいてくる。

(そんなこと言われたって・・・)

 美紗緒はとりあえずガードを固め、彼女の様子を見ることにした。

 対してまどかは序盤から飛ばしてくる。間合いに入るとストレート、フックを振り回す。ガードされてもお構い無しのスタイルに、美紗緒は少し驚いていた。

(・・・ひょっとして、私より下手?)

 美紗緒も決して技術が高い方ではない。毎試合必ずのように乱打戦に持ち込む、いわば気合で勝負するタイプのボクサーだ。それでも文月先生に叩き込まれたおかげで基礎はしっかりしているし、セオリーも知っているつもりだ。漫画の影響で始めたピーカーブスタイルが板についてきたのもその証だろう。

 しかしまどかは、ガードもそこそこに単調な攻めを繰り返している。パンチにはスピードも乗って威力もありそうだ。しかしこれでは・・・

 そんなことを考えていた美紗緒に油断があったのか。

 ドボォ

 きついボディストレートをもらってしまった。

「うく・・・っ!!」

 後退する美紗緒に、まどかは腰に手を当てて言い放った。

「遠慮はいりません!!打ってきてください!!」

(・・・こんにゃろー!!)

 一発もらって吹っ切れたのか、美紗緒はダッシュして大振りの右ストレートを放つ。まどかはそれをガードすると、

「はい!!」

 肯定の言葉を短く発する。

 そこから壮絶な乱打戦が始まった。

 やはりまどかの技術は粗雑だったが、ガードの隙間にはきっちりパンチが飛んでくる。思いパンチに美紗緒は何度かグラつくが、彼女はこのような試合を幾度も乗り越えてきた意地がある。

 バグッ

 渾身の右フックに、まどかは尻餅をついた。

「ハア・・・ハア・・・。まどかさん、ガードが甘すぎますよ」

「うぅ・・・まだまだです・・・!!」

 アイドルという立場上、時間もきちんと取れないのだろう。関係者も快く思っていないのかもしれない。それでもアイドルであり、ボクサーである理由は何なのか?美紗緒の頭には疑問が広がっていった。

 

 ズダンッ

 まどかの右ストレートで、美紗緒は盛大にダウンした。立ち上がる気力もないのか、大の字になって天井を見上げている。

「3ダウン目・・・ハア、ハア・・・私の勝ちです・・・」

 まどかは強かった。少なくとも美紗緒が思っている以上には、だが。

 美紗緒には、彼女との差が何なのかわからなかった。だからさっきの疑問が口を突いて出る。

「まどかさん・・・どうしてボクシング始めたんですか?」

 まどかは美紗緒の近くに座り込んだ。

「一度TVのロケで、プロと体験スパーをやったんです。そしたら一発いいのが入っちゃって、ダウンとっちゃった・・・」

「・・・嘘でしょ?」

「ほんとです。その時の感触が忘れられなくて・・・。事務所には内緒でライセンスまで取っちゃった」

 恥ずかしそうにまどかは笑った。

 美紗緒は顔をまどかに向けた。

「大変じゃ・・・ないんですか」

「そうですね・・・。周りからはうるさく言われますし、練習時間もなかなかとれないし。でも、本気だから。仕事もボクシングも」

 まどかはゆっくり起き上がると、リングを降りた。

「じゃあ行きますね。さすがにマネージャーさんがかわいそうだから」

 美紗緒は体を起こして笑った。

「その顔を見せる方がかわいそうですよ」

 アザだらけの顔で、二人は笑った。

 

 三日後。

 美紗緒が欠かさず見ている、生放送の歌番組にまどかが出演した。

 化粧でも隠しきれない青タンに、司会者も困惑気味だった。それを楽しむかのように振舞うまどかをみて、美紗緒はクスクス笑った。自分の顔に残るアザをそっと撫で ながら。

                 ─終─

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