私、高梨 美月はいつもの慣れ親しんだボクシング部室の赤コーナーでプロの試合用のコスチュームを身に纏い、対角の少女を見つめていた。

神奈川県・私立光陵(こうりょう)高校女子ボクシング部主将、下司(しもつかさ)ナミ

なんと、一年生ながらに女子ボクシング部を創設して主将もしてるんだって。タレ目がちであまり強さを感じさせないその面持ちとは裏腹に、実力はかなり高いらしい。
なんでも、小学生の頃からボクシングジムで本格的に習ってるんだとか。

で、なんでそんな娘と対峙しているのかというと……


「え、練習試合ですか!?」

私の右隣で我がよ……ゲフン、親友の日比野 千歳(ひびの ちとせ)が叫ぶ。どことなく嬉しそうに聞こえるのは、決して私だけじゃないハズだ。

「そうだ。私の知り合いが顧問をしてるトコでな。光陵高校って言うんだが」

ちーちゃん(千歳ちゃんの愛称ね)の返答に頷くのは、私の従姉妹で我らが顧問の高梨 文月(ふみづき)。
どうやら知り合いの先生が勤めている高校に新しく女子ボクシング部が出来たらしく、どうせなら練習試合をしないか? という話が持ち上がったのだそうだ。

「光陵、ねえ。ボクシングが強いって、割と有名な高校じゃない」

と、私の背後から冷静な解説を入れてくれたのは、金髪碧眼のアメリカ人留学生、リサ・ランフォード。
そういえばこいつ、アマチュア関連は結構詳しかったりするな。なんせ幾つもの大会で優勝した、とか言ってたし。

「ふぅん。有名なんだ」

さらにその隣から会話に便乗してきたのは、部活仲間で同級生の百地 美紗緒(ももち みさお)。

「……男子は、だけど」

さり気なく言葉を続けるリサ。そして喧騒止まらぬ部室を、文月先生が一旦静まらせた。

「とにかく! 向こうの人数の問題もあるから、ウチからは徳川(とくがわ)、久木野(くきの)、リサ、そして美月。この4名を選抜する。いいか、全員返り討ちにするぞ!!」


という経緯(いきさつ)による。

そんな訳で、先生の知り合いの植木 四五郎(うえき しごろう)という無精髭を生やした男性率いる光陵高校との練習試合が始まった。
ちなみに、対戦表はこんな感じ。

・第1試合
 久木野 紫音    vs 桜 順子    <ピン級>
・第2試合
 リサ・ランフォード vs 高頭 柊    <ライト・フライ級>
・第3試合
 徳川 杏花     vs 杉山 都亀   <バンタム級>
・最終戦
 高梨 美月     vs 下司 ナミ   <フライ級>

 

という訳で、第3試合まで終ってこれから私の出番、なんだけど……

「ここまでで1勝1敗1分って………どれだけプレッシャー掛けたら気が済むわけ!? 意地でも負けられないじゃないよ」

なんとも(周囲では)盛り上がる展開になっていたりして。バトンを渡される身としては全っ然嬉しくないんだけど?

「頑張ってね、美月ちゃん」

ちーちゃんが心配そうに一言添えて、マウスピースを差し出してくる。それを銜えさせて貰いながら、私は対角へと振り返った。

「でも、これで負けたら面子潰れるよね」
「じゃあ、もし負けたら罰ゲームってのはどう?」
「そんな罰ゲームだなんて。美月先輩にプレッシャー掛けるのもどうかと思うのですけど……」
「だったらさ、リサちんの作ったカレーを食べてもらうっていうのはどう?」
「…………ピーマン入り………」

背後から、部員たちの話し声が聞こえる。しかも、出来れば聞きたくなかった単語まで……
『リサのカレー』ですと!? 『ピーマン』ですと!!? 私を入院させるつもりかッ!

この試合、何がなんでも絶対負けられない。
もし無様な試合をして、「プロボクサーといってもこんな程度?」とか思われたくないし、なによりプライドが負ける事を許さないから。
それに、晩の惨事を考えただけでもう生きた心地がしないもん。


 さて、気を取り直して。この最終戦、実はお互いの合意の上ヘッドギアなし、グローブも8oz(オンス)というプロの試合方式で行われる。
相手の下司さん(言いにくいからナミちゃんでいいか)から、近しい歳の女子プロボクサーとプロの条件で闘ってみたいと、たっての希望があったのだ。

一応先輩の私としては、こんな話を持ち出されて退く訳にはいかない。もちろん承諾。

とまあ、こんな流れで私はプロ用のコスチュームを着ているのだ。いつもの紫のスポーツブラに、薄紫色で黒のサイドラインの入ったトランクス。そして赤グローブ。

対するナミちゃんは緑のスポーツブラ、同じく緑で黄色のサイドラインの入ったスカートタイプのトランクス。
下には黒のショートスパッツを穿いて、コーナーに合わせた青グローブを着けている。

まだプロにもなってないのに、もうこんなコス持ってるんだ……

胸元で両拳をバンバン打ちつけ、ギラギラに光った眼光を私にぶつけてくるナミちゃんは、すでに戦闘態勢OKみたい。

「高梨さん、わたしの勝手な要求を聞いて頂いてありがとうございます。今日は思いっきり勉強させてもらうつもりなので、全力でお願いしますね」

レフェリーの文月先生から試合上の注意事項をひと通り聞いた後、ナミちゃんが殊勝な言葉と共に両拳を私のグローブに当ててきた。

あ、可愛くないなぁ。口では殊勝な事言ってるけど、メチャクチャ勝つ気満々じゃん!

「ううん、気にしなくていいよナミちゃん。プロの厳しさってのを思い切り教えてあげるから。"もちろん"全力で、ね」

彼女の挑発をサラリと受け流してみせ、私は赤コーナーへと戻る。ちーちゃんにマウスピースを銜えさせて貰い、左手で位置を直す。
さあ、その自信がどれぐらいのものか、見せてもらいましょうか?

カァァァァンッ!

文月先生がわざわざジムから拝借してきた自動タイマー付きゴングが、私とナミちゃんとの闘いの鐘を弾く。
私はゆっくりリング中央へと進み、お互い右拳を合わせると一旦下がった。

今回のこの勝負、2分4ラウンドマッチで行う。さてさて、1R目はちょっと様子見を……って!

ビュンッ!

「ぅわ!?」

一旦距離を取ったと思ったナミちゃん、不意を突くようにダッシュしてきて左ジャブを打ってきた。ギリギリの所でかわせたけど、かなり速かった。
いかんいかん、こりゃ油断してたら向こうにペースを持ってかれるぞ……

続いて打ち込まれた左ジャブを、なるべくガードしないで避ける。確かに鋭いし速いジャブだけど、全く対応出来ない程じゃない。
回避に専念する私に対して手が出ないと取ったのか、さらにジャブで追い立てるナミちゃん。いくらリードブローだからって、
そう連発で打たれたらいい気分はしないって。

何発目かのジャブを右手でストッピングしつつ、こっちからも狙い済ました左ジャブ! 
ナミちゃんが打った瞬間にパンチモーションに入り、これがキレイにカウンターヒットした。
ヘッドギアのない、生の顔面を叩く感触が左拳に伝わってくる。これでとにかくも勢いを止めた私は、続けて右ストレートを打ち込む。
バンッ! という音と共に、またも拳に伝わる衝撃。だが……

「ッ!?」

私の右が捉えたのは、ナミちゃんの顔面でなく左肩だった。上手くショルダーブロックで阻まれ、首筋にぞくりと悪寒が走ったのとほぼ同時。
右拳が彼女の肩によって弾かれ……

ズンッ!

腹へ重い一撃を食らってしまった。

「ぐはッ」

思わず呻き声を出してしまう。うう〜、中々いいパンチ打ってくるじゃないの。
ここからコンビネーションにでも移行されたら何かと面倒そうなので、一旦バックステップで距離を稼ぐ。
五分の状態で仕切り直し、今度は同時にジャブを出し中空で交差。
パンッ! と音が響き、私の頬とナミちゃんの鼻っ柱に炸裂。それをきっかけに、お互い激しい打ち合いとなった。

ナミちゃんのボディーフックが私の脇腹を叩けば、私のアッパーがナミちゃんのアゴを跳ね上げる。
ストレートをかわしざまボディーアッパーで腹を穿てば、お返しとショートフックで首を捻らされてしまう。
私の左とナミちゃんの右がクロスし、頬肉を潰し合い唾液を飛ばす。

そんな殴り合いがどれだけ続いたんだろう? どちらともなく一旦距離を離し、また中間距離で対峙した。

「はぁ、はぁ……」
「ハァ、ハァ、ハッア……」

早くも息を切らす私たち。ダメージ的には五分五分ぐらいかな。いや、鼻血が出てる分向こうの方が効いてる、と思いたい。
そんなこんなで隙を窺っていると、カァァァァンッ! というゴングの音。あっという間に第1ラウンドが終わってしまった。

「強いねあの娘。結構パンチ貰ってたけど、大丈夫? 美月ちゃん」

 スツールに座り、マウスピースを抜いて貰いながらちーちゃんが心配そうに訪ねてくる。

「ぷぁッ、確かに強いね。特にハートが……でもまあ、なんとかなるって。それよりちーちゃん、水ちょうだい」


一方、対角の青コーナー陣営でも無精髭の先生とナミちゃんが何やらやり取りしているみたい。
次のラウンドの指示でも受けてるのか、それとも私の事でも言ってるのかな? もしそうだったら、ちょっと感想聞いてみたいかも。

「セコンドアウト! 第2ラウンド始めるぞぉー」

文月先生の合図が掛かり、ちーちゃんと植木先生がリングから出る。私とナミちゃんはお互いマウスピースの位置を直しつつ、ゴングが鳴るのを待つ。

カァァァァンッ!

第2ラウンドが始まった。今回は意趣返しの意味も兼ねて、こっちから不意を突くスタートダッシュを行う。一気に間合いを詰め、勢いを駆って右ストレートのモーションに。
一瞬ビクッと肩をいからせたのが見えたから、多少なりと不意は突けたみたい。でも、さすがにこんなテレフォン気味なパンチなど当たらないだろう。既にガードモーションに入っている。

だけどッ!

右を途中で止め、正面でガードを固めている隙間……つまり下から左アッパーを思いっきり打ち込んでやった。最初の右はフェイク、本命はこの左だったって訳だ。

グシャッ!

まるでガードの奥に吸い込まれるような錯覚に陥りそうな、完璧な手応えが左拳から全身を駆け巡る。

「ぶげえッ」

下から掛けられた力の圧力に耐え切れず、ナミちゃんの顔が上へと跳ね上がり身体が伸びる。銜えたばっかりのマウスピースが天へと舞い上がり、弧を描いて落ちていく。
それがキャンバスに落ちた頃、ダァンッ! と派手な音を鳴らしながらナミちゃんは仰向けに崩れ落ちた。

「ダウン! 美月、ニュートラルコーナーに下がれ」

すかさず文月先生が割って入ってきて、私に下がるよう指示。作戦がバッチリ上手くいって内心ガッツポーズのひとつでも取りたい気分だけど、それを抑え込んで静かに下がる。

「ワン…ツー…」

ニュートラルコーナーに下がり、ロープに両腕を掛けながら私はダウンしたナミちゃんを見下ろす。リング外から聞こえてくる歓喜と悲痛、
二種類の歓声を背中に受け、私は立ち上がろうと動き出したナミちゃんへと視線を外さない。
ダウンカウントを数えられ立ち上がろうとする年下の女の子、まだまだ強く光を放つその瞳が、私を魅了して離さない……そんな気がするのだ。
きっちり8カウントを使って立ち上がったナミちゃんは、文月先生の質問にコクコク頷きやる気満々の様子。

試合続行は問題ないと判断したようで、「ボックス!」との指示が飛ぶ。2ラウンド早々でダウンを取ったけど、
だからといって一気に攻め立てたらとんでもないしっぺ返しを食らうんじゃないか?
そう思った私は、敢えて追撃を仕掛けずペースの維持に努める事にした。


う〜ん。後から考えたら、この判断は失敗だったかも知れない。


 結局第2ラウンドでは大きな試合の流れはなく、続く第3ラウンド。さて、ここで私はひとつの山場を迎えていた。
どういう事かというと、実は上手く赤コーナー際に誘導されたっぽいのだ。
いやあ、プレッシャーの掛け方がハンパないんだこの娘。気付けばこうして窮地に立たされていた。私のピンチは、言い変えれば相手のチャンス。
ここで見逃してくれる程可愛げのある相手でもないしなあ……その証拠に、脚のスタンスを広げてラッシュの体勢に入っている。

話によれば、勝ち星のほとんどがコーナー際でのラッシュとか言ってたっけ? 仕方ない。んじゃいっちょ、頑張って凌いでみましょうか!

私も同様に脚のスタンスを広げ、打ち合いに応じる。まず火蓋を切ったのはナミちゃん。ワン・ツー・スリーと基本的なコンビネーションを打ち込んできた。
それは無難にガードを固めてやり過ごす。が、スリーに当たる左フック……これは初めからガードを払う目的だったらしい。
見事に腕を横薙ぎにされてしまい、私のガードはものの見事に崩されてしまった。

なんて冷静な打ち分けしてくるんだ、この娘は!?

と、感心してもいられない。続いて打ち込まれた右ボディーアッパーを、右に身体を流す事でかわす。バンッとコーナーマットを叩くナミちゃんの右拳。
この隙になんとかコーナー際から抜け出そうと試みてみるものの、そう上手くはいかないみたい。進路を身体で塞がれると、続いて右ショートフックを被せてきた。
だが、それはパーリングで下に落としつつ右ショートアッパーを叩きつけてやる。カウンターでヒットはしたものの、これは苦しい体勢から打っただけあって威力の程は今ひとつ。
案の定ナミちゃんは動きを止めず、攻勢を持続。次は左ボディーフックからテンプルへのダブルを高速で打ち分けてきた。
ボディーフックはキッチリ肘で防ぎ、テンプルへの一撃はダッキングで頭を掠める。

よし、だんだん目が慣れてきた。今度は私の方から左ボディーアッパーから右へシフトウェイトし、死角から右ロングフックをテンプル目掛けて打った。

ゴッ!

下へ意識を向けた上に死角から飛び込んできたフック。それをナミちゃんは反応し切れず、今度こそクリーンヒットを奪ってみせた。
目から火花が飛んだように見えて、衝撃で前屈みになるナミちゃん。
これこそ脱出の糸口と確信した私は、ここぞとばかりに力を溜め、右ストレートを思いっきり叩きつけてやった。

「ぶはぁッ」

連続して顔を揺らされ、大きく後退する隙を突いてコーナー際から飛び出す。こうして、私はなんとか虎口を脱する事が出来た……ハズだった。
だが、ここでナミちゃんが振り向きざまに右フックを仕掛けてきた。遠心力のついた、威力のありそうなパンチ。
九死に一生を得たと安心したわたしの油断が、思わぬダメージとなって返ってくる。
頬に今日1番の衝撃を受けて、私は吹き飛ばされてしまった。脚がもつれバランスが取れず、あわやダウンという瞬間


カァァァァンッ!

第3ラウンド終了のゴングが鳴り、もんどり打った私は僅か数瞬の差でダウン宣告を免れた。
ラウンドの最後でカウントされないダウンを喫してしまったものの、とりあえずもお互い自コーナーへと引き揚げていく。

決着は最終、第4Rに持ち越しとなった。

「お疲れ様。マウスピース出して、美月ちゃん」

ちーちゃんにマウスピースを引き抜いて貰い、私はうがいで口の中を洗い流す。なんにしても、さっきのフックは効いた。まだ一年生でこれだけの実力があるなんて……正直驚いてる。
これがもっと経験積んで、プロになったとしたらどれだけ面白いボクサーになるのか。でも、未来はともかく今の段階ではまだまだ原石。

「セコンドアウト!」

文月先生の声が響く。ちーちゃんと無精髭の先生は共にリングを降り……

カァァァァンッ!

最終、第4ラウンドが始まった。

チョンとグローブを合わせ、対峙する私たち。一見した所、私以上にナミちゃんのへばりようが目立つ。
逆転に繋がりかねないフックを放ったとはいえ、やっぱりヘッドギアなし、8ozという条件での闘いはアマチュアの彼女にとって必要以上にプレッシャーとなっていたらしい。

ここは多少なりともプロのリングを闘った私にこそ、アドバンテージがある。左ジャブを2発打ってから、右ストレートでナミちゃんの腹を穿つ。
スタミナの切れかけた彼女にそれを捌くのは難しかったようで、ジャブはガード出来ても右拳は鳩尾へと吸い込まれた。

「ぐへぇッ」

身体をくの字に折り、肺から酸素が絞り出されていく。スタミナ切れの所にこれは効いただろう。更に左で肝臓打ち……レバーブローを叩き込み、右ストレートを打ち下ろした。
それらをまともに食らったナミちゃんは、あっさりと膝を折り四つん這いで崩れ落ちた。

「ダウン!」

すかさずダウンの宣告が入り、私は呼吸を整えつつニュートラルコーナーへ。身体を震わせながら立ち上がろうとするナミちゃんをじっくりと見つめてみる

もうそろそろ限界、かな。

カウント8で立ち上がった彼女に、試合再開を促す文月先生。肩を上下させ荒い呼吸を繰り返しているけど、まだ思った以上に力が残っているのだろうか。
どちらにしても、2ラウンドの時と違ってここで躊躇する理由はない。私は一気に間合いを詰め、上下左右に攻め立てる。
それに対し亀のようにガードを固め、徐々に後退していくナミちゃん。
そうしてロープに追い詰め、なお手が出ないままクリンチで凌ごうと動きを見せた。

それはさせないよ!

突っ込んできた所を両手で押し返し、弾き返して右ストレートを見舞う。それはいとも容易くガードを貫き、
ナミちゃんの鼻っ柱に打ち付けた。鈍い音が返ってきて、ロープに凭れ掛かる形でずるずると沈んでいく。
このラウンド、2度目のダウン。これは、もう決まったとほとんどの人が思っただろう。事実、闘っている私自体これで勝ったと思ったぐらいだったんだから。
だが、予想を覆し彼女は立ってきた。もう見た目は完全に死に体のように見える。のに、何故か目の光だけは全く死んでない。

これは、もしかしたらなにか逆転の1発でも狙ってるんじゃないだろうか?

なんにしても、あと1回倒せばこの試合は終わる。もうフラフラで、ちょこっと押せば崩れそうなぐらい弱々しく見えるナミちゃんを前に、なにを弱気になる必要がある!

「美月ちゃん、いけーー!」

赤コーナーサイドからちーちゃんのGOサインが聞こえる。それに応えるように、私は最後の攻勢を仕掛けた。
ワン・ツーを打ち込んだだけで、あっさりと後退してしまう程彼女には力が残っていない。
さっきと同じような状況でロープ際に追い詰めた私は、息を吸いラッシュに入った。

 私のパンチがナミちゃんに当たる度、全身とその背後のロープを軋ませていく。それが優に10発分は続いただろうか。
ガードの甘い腹に狙いを定め、私は渾身の右ボディーアッパーのモーションに入る。
そこで、背筋に緊張が走った。私がパンチを打とうとしたまさにその瞬間、ナミちゃんの右腕が私のアゴを刈りに来たのだ。

しまった、誘われた!?

だが、ここまで来てパンチを止めるなど出来るわけもない。相打ちも覚悟して私は右腕を振り抜いた。

ズドォッ!
ゴゥンッ!

 

 

私のボディーアッパー、ナミちゃんのアッパーカット、2人のパンチが決まる。下から突き上げられる衝撃に、私は一瞬平衡感覚を失い天を仰ぐ。
しかし、幸いにも身体の自由までは奪われてない。

「がぁッ」

すぐさま体勢を立て直し、次の攻勢に備える。が、今のボディーアッパーはナミちゃんの戦意を完全に折ったらしい。目を見開いて、
マウスピースも半ば以上はみ出ていた。腕も中途半端な位置までしか上がってない。
頭で考えるより先に、私の左腕は鉤型に構えられそのままフックをぶつけていた。

「ぶぅッ」

もう防御もままならず、ナミちゃんの口から空気と唾液と、それを纏ったマウスピースが飛び出して地面をタン、タンと蹴っていく。次の瞬間には身体が沈み……

ダァンッ!

力尽きたナミちゃんは、私の足元でキャンバスへと崩れ落ちた。

「ストォップ! 試合終了!!」

文月先生が、すかさず試合終了を宣言。年下の強敵を完全に粉砕した事への歓喜と、激闘を制した事による安堵、2つの感情に支配され私は肩で息を切らせる。

第4ラウンド、1分49秒。3度のダウンによるTKOで、私の勝利となった。

「やったぁ、おめでとう美月ちゃん!」

 ちーちゃんがリング内に雪崩れ込み、私を抱きしめてくる。自分で思ってた以上に苦戦してたように見えたのかな。でも、目の前で喜ぶちーちゃんの顔を見てたらそんな事は大した問題でもないと思えて、私も思い切り抱きしめ返し勝利を喜び合う。
その一方で崩れ落ちたナミちゃんの様子も気になって、チラッとそちらを見てみた。仰向けに横たわったまま、青紫色の表情で身体を震わせているナミちゃん。
相当腹を叩いたから、チアノーゼになってるのかも。かわいそうかも知れないけど、徹底的に弱点を突くのも勝負の鉄則、プロの条件でもあるからね。

それから10分ぐらいは優に過ぎた辺りで、ようやくナミちゃんは身体を起こしてきた。一旦青コーナーに戻り、呼吸を整えてからリング中央へ。
文月先生に勝利を宣言され、私は左手を掲げられる。その瞬間、敵味方問わず拍手の雨。喝采も聞こえてきた。

「あの、高梨さん」

それらを全身に浴びながら、今まで闘っていたナミちゃんがこちらを振り向く。

「完敗です。やっぱり敵いませんでした……もうちょっとやれるかと…思ってたんですけど」

晴れ晴れとした表情で、私に右手を差し出すナミちゃん。しっかりとそれを握り返し、私も同様に晴れ晴れとした顔を見せた。

「ナイスファイト! あと数年経験を積んでプロでもまれたら、私もヤバいかもね」

ウィンクをしてみせ、ナミちゃんの身体を抱き寄せる。肩をポンポンと優しく叩いてやり、年下の女の子の健闘を称えてあげた。

今回は私の勝ちだったけど、次にやったらどうなるかな。先がとても楽しみな選手だと、私は思う。
同時に脅威とも……だけど、ともかく今は貴重な時間を共有出来た事を分かち合いたい。
いつかまた闘える日が来るのを期待しつつ、この話はこの辺で終わりたいと思う。

〜〜fin〜〜

 

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