^「地域新人戦、ですか?」

 ある日の練習後。荻野(おぎの) 紗代(さよ)と久木野(くきの) 紫音(しおん)、2人の一年生は女子ボクシング部顧問である高梨(たかなし) 文月(ふみつき)に呼ばれた。

「そうだ。いくつかの区内にある高校、その中の一年生だけを対象にしたアマチュアボクシングの大会なんだが……どうせだから出てみないか? と思ってな」

唐突に突き付けられた大会の話に、紗代はさすがに戸惑った。最近、ようやく先輩でありプロボクサーである高梨(たかなし) 美(み)月(づき)を相手に、スパーリングをさせて貰えるようになったばかり。
まだまだちゃんとした試合に出る勇気など、今の彼女にはなかった。
実力不足を理由に断るべく口を開こうとした、まさにその矢先……

「出ます」

なんと、隣の紫音が何の躊躇もなく大会参加をOKしたではないか!

確かに、紗代と違って紫音のボクシングセンスに疑う余地はなかったし、早くもアウトボクサーとしてのスタイルすら確立している。
ただ、どこか近づき難い雰囲気もあった。周りとの関わり合いを拒絶している、と言っていいかも知れない。
少なくとも、紗代は紫音と仲良しになりたかった。いや、今でもなりたいと思っている。

(ここで断ったら、もしかして久木野さんにまた相手にされなくなるかも……)

逆に、ここで頑張って試合に勝って結果を残せば、或いは紫音に認められるかも知れない。
彼女なりにあれこれ思考を巡らせた挙句、

「あ、あの。わたしも! わたしも出ますっ!!」

必要以上に声を張り上げ、参加を表明した。
勿論それらはあくまで紗代の妄想であって、試合に勝ったからといって紫音と仲良しになれる保証など、どこにもない訳なのだが……

 月日は流れ、いよいよ地域新人戦の当日。ピン級の紫音とライト・フライ級の紗代は、階級が近い事もあって試合がほぼ同時に行われる。
そういう事情もあって、紫音のメインセコンドには文月が、そして紗代には副部長の大城(おおしろ) 春奈(はるな)がそれぞれ就く事となった。

「すぅ…はぁ……すぅ…はぁ……」

喧噪に包まれる赤コーナー控え室。その中に備え付けられた長椅子に腰かけた紗代は、自身を落ち着かせようと何度も深呼吸を繰り返す。
紗代の試合は第3試合。ちなみに紫音は第1試合、青コーナーとなっている。

(久木野さん、もう試合終わったかなぁ)

同い年の部活仲間が今リングでどう闘っているのだろう? 気になると同時に緊張もさらに高まっていく。
もうじき自分も同じようにリングに立ち、観客の視線を浴びながら対戦相手と殴り合うのだ。

「さあ、そろそろ用意しましょうか」

いつまでも深呼吸をするばかりの紗代を見兼ねたのか、春奈が柔らかな微笑みを見せながらグローブを持ってきた。

「は、はいっ!」

春奈の声に、鳩が豆鉄砲を食らったかのように狼狽する紗代。やれやれ、といった顔で軽い溜息を吐き、春奈はバンデージの巻かれた紗代の手にグローブを着ける作業を始めた。
コーナーに合わせた、真紅のグローブを眺める。牛革製の滑らかな光沢を放つグローブを見ているうち、ふと綺麗な色だな、と紗代は思った。

10オンスの公式戦用グローブに拳を包み、マジックテープで固定する。
次に、後頭部で束ねていた髪を春奈が器用にほどいていき、同じくコーナーに合わせた赤のヘッドギアを頭へ被せる。
殴られて位置がずれないように後頭部のマジックテープをキツく締められ、頭部を覆う違和感に何度か首を振ってしまう。

「どう、キツ過ぎたりしない?」

慣れない違和感に窮屈さを覚えつつ、しかし紗代は「大丈夫です」とだけ答えた。どうせこんな違和感も今のうちだけだろう、と思ったからだ。

薄い桃色のトップスを中に着け、その上から白地に赤ラインの入ったランニングシャツ。
下は赤のサテン生地に白いサイド1本ラインの入ったトランクス。
黒に白いラインを施したハイカットタイプのリングシューズ。

これらは、全て美月からの借り物である。どれも中学の時に使っていたもので、今はサイズが合わなくなったとの事だった。
美月の方から申し出があり、最初はさすがに悪いと断ったのだが、遠慮するなと半ば強引に押し付けられる形となったのである。
だが、紗代にとって実の所この申し出はとてもありがたかった。この大会まで時間がなく、小遣いを掻き集めても一式を揃えるのは難しかったから。

「荻野選手、時間ですので出てきて下さい」

係員らしき男性から試合が近い事を告げられ、紗代は心臓の鼓動が一層高まるのを感じた。だが、ここまで来て緊張してばかりでは、とても試合などと言っていられない。
バン、バン、と顔を手のひらで張ると、気合いを入れ紗代は春奈と共に控え室を勇んで出ていった。

 とある体育館のど真ん中に設置された約6m四方のリング、その中に紗代は初めて足を踏み入れていた。
踏み込むとほんの僅か沈み込む独特の感覚に、思わず「ひゃっ」などといった声を上げてしまう。
これが初めての本気の試合なのだから、緊張するなというのも無理というもの。
一方、既にリングインしていた青コーナーの対戦相手はというと、こちらも紗代ほどではないが緊張の色を見せていた。

黒のトップス、白地のランニングシャツ。
黒のサテン生地に黄色のサイド2本ラインが入ったトランクス。
白に青いラインのショートタイプシューズ。
そして、青いヘッドギアに青グローブ。

ヘッドギアの隙間から流れる髪が何とも女の子らしさを感じさせる。顔立ちも、見える限りなかなか映える可愛らしさだ。

お互いトランクスのベルトラインにコーナーの色に併せたコーナーリボンを巻き、セコンドに指示を受けていた。

「ライト・フライ級、第3試合を行います。赤コーナー、荻野 紗代選手」

長机に置かれたマイクを通し、リングアナからのコールが流れた瞬間、紗代は慌てて「はいっ!」と素っ頓狂な声を上げ四方へ頭を下げる。
これに方々から小さな笑い声が響き、顔を赤くしつつコーナーへ戻った。

「青コーナー、碓氷(うすい) 雛子(ひなこ)選手」

続いて青コーナーの選手がコールされ、こちらは紗代よりは幾分落ち着いた様子で四方へ頭を下げる。
すでに何戦か体験しているのかも知れない。
両選手のリングコールが終わると、レフェリーが2人を中央へ招き寄せ諸注意を行う。その間、紗代は目線を下へ向け、雛子は紗代の方へ視線を向けていた。
やがて注意事項を全て説明したレフェリーから、「それではお互いクリーンなファイトを心掛けるように」とグローブタッチを要求。
ポスッとグローブを合わせた際、変わらず緊張している紗代へ雛子から声が掛けられた。

「あ、あの…あんまり緊張しないで下さい。あたしも全力でが、頑張りますから」

雛子からのこの一言は、紗代だけでなくその場に一緒にいた春奈や雛子側のセコンド、さらにレフェリーまでもが驚きを隠せなかった。
まさか対戦相手に緊張するなとアドバイスするとは思わなかったからである。

「う、うぉほん、私語は慎むように」

呆気には取られたが、立場上注意を入れるレフェリーに出過ぎた事をしたと謝る雛子。
これについ失笑してしまった紗代は、しかし幾分か緊張がほぐれたような気がした。

「荻野さん、はいマウスピース」

赤コーナーへ戻り、春奈はすぐに紗代へマウスピースを差し出す。慣れない手付き……いや口付きで差し出されたマウスピースを、
春奈の指を噛まないよう気を付けながら銜え込む。
異物の入ってきた不快感に眉を顰めながらも、グローブを着けた拳で位置を直す。

ここまで来れば、後は己の持てる力の全てを発揮するまで!

(美月先輩、力を貸して下さい)

自分の纏っているコスチュームを肌で感じ、目を閉じる。

「1回目!」

リングアナのコールの後、

カァァァァァンッ!

高らかに響く試合開始のゴングと同時に、閉じた目を開け視線を雛子だけへと向けた。

リング中央でお互いグローブタッチを交わし、紗代は一旦距離を離す。武器は陸上で鍛えた脚を駆使してのフットワーク。
かつて陸上部の期待の新人と目されていた彼女のフットワークは、まだ荒削りながらなかなかのものと見られている。
一方で、パンチ力は自分でも情けなくなるくらい心許ない。KOなど思いもよらない紗代としては、やはりスピードと手数でポイントを稼ぐ方法こそが最上と考えた。

(まずは距離を取って……って!)

悠長にどう攻めようか思考していた紗代へ、いきなり雛子のパンチが唸りを上げて迫る。

「ぁぐっ!」

思わず首を竦め、雛子の左ジャブが紗代の額に当たった。ヘッドギア越しにも響く衝撃に、思考などあっさり霧散してしまう。

ズキッと疼く額を気にする暇もなく、さらに右ストレートが襲い掛かってくる。
咄嗟に構えたガードによって、これはしっかりとブロック。構えたというよりは、ちょうど良い具合にガードがあったというべきだろう。
雛子のパンチは、紗代には見えていなかったからだ。
脚を使ってのアウトボクシングを旨とする紗代に対抗したかのように、雛子のスタイルは所謂インファイターのそれであった。
距離を取ろうとバックステップした紗代に追随してきたのがその証左。

その後も次々と繰り出されるパンチに対し、紗代はそれらを何とか避け、もしくはガードを固めて阻むだけで精いっぱいだった。

(どうしよう! どうしよう! どう攻めたらいい!?)

軽いパニックに陥り、ただひたすらディフェンスに徹する紗代。一瞬でも気を抜けばあのパンチを貰ってしまう……そう考えれば、反撃など思考の片隅にすら浮かんでは来なかった。

「荻野さん、手を出して! 打たれっぱなしよ!!」

赤コーナーサイドから春奈の怒声が飛ぶ。だが、パニック状態の紗代にそのアドバイスは届かなかった。

紗代がようやく反撃という思考に辿り着いたのは、第1ラウンド開始から1分弱が経過した頃。
これまで一方的にパンチを振り回してきた雛子の動きが、鈍ってきたように見えたからである。
実際はディフェンスに徹するうち、雛子の動きに紗代の眼が慣れてきたのが要因なのだが、当人には鈍ったように思えたのだ。

(よ、よぉし、これなら打ち返せそう)

雛子の大振り気味な右フックをスウェーバックでかわすと、身体の流れた所を狙うように左ジャブを放った。

パァンッ!

乾いた革の殴打音が拳の先で鳴り、「ぶぅっ」という雛子の呻き声が小さく耳に届く。
左拳には確かに雛子の顔を殴った鈍い感触。間違いなく、紗代のジャブは相手に当たったのだ。

(当たった!? こ、これなら)

1発パンチを当てた事で、ぐるぐる描き回されていた紗代の思考はたちまち落ち着きを取り戻していく。
そして、続く2発、3発と左ジャブを雛子の顔面へ打ち込んだ。

「はぅっ、ぷふっ!」

紗代のジャブがリズミカルに顔を叩く度、雛子の口から僅かな声が漏れる。どうやら、ディフェンスはそこまで得意ではないようだ。ただ……

「っ!?」

いきなり大振りの右フックが顔の真ん前を通過していった。ジャブを4連発で当ててみせても、生来のパンチ力の無さは如何ともし難いらしくあっさりと反撃されてしまう。

(せめて美月先輩みたいにカウンターが狙えたら……)

なりふり構わず追随してくる雛子に対し、闘牛士の如くいなしながらジャブを返す紗代は、つい脳内で憧れの先輩が闘う姿を思い描く。

(たしか……)

雛子のパンチをバックステップでかわし、タイミングを計る。
ロープやコーナーに詰まらないよう細心の注意を払い、美月をイメージしながら雛子を中心に円を描くようにフットワークを駆使。
そして、紗代のアウトボクシングに痺れを切らした雛子はついムキになり大振りの右フックを放った。

(来たっ!)

待ちに待った大振りの右。ここぞとばかりに紗代はダッキングで屈みざま右ストレートをがら空きの腹へ叩きつけた。

ドスッ! という音と、右拳に伝わってくる確かな感触。
脳内に描くイメージは、この時まさに美月そのもの!

「くぉうっ!」

大振りのフックをぶん回し、伸び切って腹筋の締められないタイミングにカウンターを決められ、さすがにダメージが大きかったらしく雛子が身体をくの字に折る。
ここで畳み掛けられれば、或いはレフェリーがダウンを取ってくれたかも知れない。
しかし、紗代は打って出なかった。
いや、打って出られなかった。

狙い澄ましたカウンター……完璧に決まったと思ったそれは、だが完璧を期する事は叶わなかった。
ボディーストレートが決まった後、雛子の返す左フックも紗代のテンプルを振り抜いていたのである。

(ぁうっ、く…くらくらする……)

ヘッドギア越しとはいえ、急所であるテンプルを雛子の強打で叩かれてはダメージのない訳がない。

紗代も雛子も、お互いのカウンターの影響かその場でたたらを踏むように動けず、そのまま第1ラウンドが終了。
レフェリーに間へ割って入られると、2人は軽くグローブを合わせ各コーナーへと引き揚げていった。
ポイント的には、リードブローで突進をいなしていた紗代が有利だろうか。だが、まだ気を抜いていい状況ではなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

春奈に用意されたスツールに小振りなお尻を乗せ、大きく深呼吸する紗代。マウスピースをややもたつきながら外し、それをリング外で待機している百地(ももち) 美紗(みさ)緒(お)へ手渡し洗うよう指示した。

「いい感じだったわ。次もしっかり相手を見てジャブを主体にアウトボクシング……いい?」

「はぁ、はぁ……はい!」

春奈の指示に、紗代は大きく答える。ただ、紗代に正対する春奈には気になる点がひとつ。
まだ1ラウンドを終えただけだというのに、噴き出る汗の量が多い。
予想以上に紗代が疲労しているように見えるのだ。

たった2分。たった2分間の出来事なのに、紗代の疲労具合は予想を超えている。
それだけ雛子の掛けるプレッシャーが強いのだろうか。
確かにパンチ力はありそうな感じだが、はっきり言ってしまえば"それだけ"。
ディフェンスも巧いとはいえないし、スピードも紗代に劣る。
だのに、春奈は拭いようもないくらいに不安感を膨張させてしまう。

漠然と、紗代はあと4分間を闘い抜くのは難しいのでは? と疑念が浮かんだ。

「と、ともかく、接近戦は絶対に避ける事。ジャブを中心に遠距離をキープ。良いわね? さあ、行ってきなさい」

疑念を振り払うように指示を与え、春奈は紗代の口にマウスピースを突っ込む。そして、肩をポンと軽く叩くと、リングロープを潜り外へと出ていった。

(何にしても、これが荻野さんの初試合だもの。あたしがしっかりサポートしてあげないと)

リング下へ降りると、肩に掛けているタオルをぎゅっと握り締める。そして、後輩の試合をしっかり見届けてやろうと改めて決意を固めるのであった。

カァァァァァンッ!

 第2ラウンドに入り、紗代は春奈の指示を忠実に守りジャブでの牽制を主体としたアウトボクシングを展開。
対する雛子は、相変わらず猪突猛進を繰り返しては紗代のジャブで接近を阻まれていた。

リングの感覚にようやく慣れてきた紗代は、とにかくも雛子の接近を警戒するように左ジャブを突き出していく。
パンッ、パスッ、と軽い殴打音が鳴る度、雛子は動きを止める。しかし、それもあくまで一瞬のみで、すぐさま身体を丸めてダッシュを敢行してきた。

アウトボクサーとインファイター、相反するスタイルのボクサー同士が闘う際に何度となく繰り広げられてきた光景。
それは、互いの精神力とプライドとのせめぎ合い。

インファイターは、いかにして射程外から飛び交う散弾を潜り抜け、相手の喉元へその鋭利な牙を突き立て一気に飲み込むか?
アウトボクサーは、いかに突進してくる相手を遠距離から捌いて焦らし、傷つかずテクニックを駆使して勝つか?

少なくとも、紗代と雛子との闘いはそういった類のものといえた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

絶えず不器用なインファイトを仕掛けてくる雛子に眉をしかめ、紗代はバックステップしつつジャブを当てていく。
しかし、いくら打ち込んでも雛子は怯む様子を見せず、それどころか更なる苛烈さを以て食い下がるべく突進を繰り返してくる。

一見、紗代がペースを掴んでいるかのように見えるこの試合展開は、その実いつ砕けたとておかしくない薄い氷の上を歩くような、非常に危ういバランスで成り立っていた。

そして、第2ラウンドも1分を超えた頃。春奈の危惧は最悪の形で的中する事となる。
即ち、雛子のダッシュが紗代のバックステップを上回り、ついに懐への侵入を果たしたのだ。

雛子のスピードが凌駕したのか、それとも単に紗代が失速したのか、それは分からない。
ただ言えるのは、紗代はこの試合最大のピンチを迎えたという事であった。

「荻野さん、離れてっ!」

赤コーナーから響く春奈の叫び。雛子の右ボディーアッパーが紗代の腹を抉ったのは、それとほぼ同時だった。

「おぐ、ぅ…」

全身を突き抜ける激しい衝撃と痛み。間髪入れず襲ってくる、詰まるような呼吸苦。
雛子のパンチは、紗代にとって今まで受けてきたどの衝撃よりも強く、まだ発展途上の腹筋などあっさりと貫通した。

思わず口が開き、覗いたマウスピースとの間からツツーと唾液の糸が落ちる。たった1発のボディーブローでその身体はくの字に折れ、ガードの甘くなった顎は剥き出しとなってしまった。

「シュッ!」

口から空気の漏れる音が聞こえ、次の瞬間がら空きとなった紗代の顎を雛子の左アッパーがめり込む。
威力十分のパンチが紗代の顎を強烈に跳ね上げ、汗や唾液が霧状に巻き上げられる。脳を縦に揺らされた紗代は、目から火花が飛び散ったかと思うとそのまま派手に尻もちをついてしまった。

「ダウン!」

この大会で初のダウンに、会場内は俄かにヒートアップしていく。

ダウンさせた雛子への喝采。
ダウンした紗代への檄。

レフェリーのカウントが続く中、それらの声が飛び交っていた。当然、赤コーナーから春奈の怒声も飛んだが、下を俯いたまま紗代は動かない。
脳を揺らされた事と初めてのダウンを喫した事で、軽いパニック状態を起こしているようだ。

「荻野さん! 荻野さん、立って!!」

重なる春奈の怒声に、呆けていた紗代はようやく我に返る。この時、カウントは4を数えられていた。

(え、わたしダウンしてる? た、立たなきゃ!)

このまま終わりたくないという思いから、まるで鉛でも背負ったかのような重い身体を必死に持ち上げ、カウント9でファイティングポーズを構える。

「まだやれるか?」

グローブに手を添え続行の有無を確認するレフェリーに、呼吸を荒げながらも頷く。その目にまだ力強い光を見たレフェリーは、「ボックス!」と試合再開を指示した。

 ダウンから立ち上がった紗代だったが、アッパーのダメージの余韻は確実に尾を引いた。
フットワークを始めとした全体的な動きが、明らかに鈍っていたのだ。

「くぅっ」

重い腕に鞭打って左ジャブを繰り出すも、雛子を捉える事すら出来ずあっさり懐を取られ、逆に右ボディーフックで脇腹を突き上げられてしまう。
耐え切れず開いた口から唾液の珠が数滴吐き出され、身体を震わせる。
このまま纏わりつかれてはまずいと、紗代は左アッパーで反撃に転じた。
しかし、ボディーブローの鈍痛から身体が流れ、パンチを当てるどころか雛子の右ストレートで逆撃されてしまった。

雛子の強打で頬肉を押し潰され、唾液にまみれたマウスピースがその姿を覗かせる。

(マズイ、このままじゃ…このままじゃ!)

辛うじてバランスを立て直した紗代は反撃を試みるも、お世辞にもディフェンスの巧くない雛子を捉える事が出来ない。
それどころか、要所ではパンチをクリーンヒットされてばかり。

ここにインファイターの牙は確実にアウトボクサーの脚を粉砕し、一気に飲み込まんとしていた。

第2ラウンドも残り30秒。完全に失速した紗代はせめて倒されまいと、ただただガードを固めるのみ。
対する雛子は、テクニックをあまり感じさせない挙動で、ガードの上からでもお構いなしにパンチを振るい続けていた。

「はぅっ、ぐっ!」

ガードする腕にパンチが当たる度、重い振動が走り顔を強張らせる。
ぶんぶん振り回す雛子のパンチは、紗代の気力・体力を瞬く間に削っていった。

「荻野さん、反撃! ストップされるわよ!?」

ガード一辺倒の紗代に、赤コーナーサイドから春奈の檄が飛ぶ。
ヘッドギア越しに聞こえた先輩の声。ガードしたグローブの隙間から覗いてみれば、今にもレフェリーが割って入ろうかと窺っているのが見て取れた。

(マズい、試合止められちゃう!)

春奈の檄とレフェリーの動向によって危機感を煽られた紗代は、雛子の振るう大振りのパンチの隙を縫うべく左ジャブを打つ。
パフッと貧弱な殴打音が雛子の顔面と紗代のグローブの間から漏れる。

(よしっ!)

ジャブが当たった勢いそのままに、紗代はワン・ツーと繋げるべく右拳を引く。
そして幾度となく反復練習してきたフォームそのまま、右ストレートを雛子の顔面へめり込ませた。

バゴッという鈍い打撃音と、伝わってくる右拳の衝撃。
「ぶっ」という小さな呻き声が聞こえた所で、紗代の視界は激しく歪んだ。
急に全身をシェイクされたかのような揺れに身体の自由が奪われ、見たくもないのに天井へ顔を向けさせられる。
次の瞬間には揺れていた視界が闇に吸い込まれていき、どこか遠くで大きな音を耳にした。


「……ょうぶ!? ………してっ! …ぎのさん、おぎのさん!!」

 徐々に近づいてくるノイズに、紗代は身体をビクッと震わせる。次いで暗かった視界が開け、徐々に鮮明さを増していくと、そこには心配そうに覗き込んでくる春奈と名も知らない男性(これはレフェリーだとすぐに分かったが)、そしてライトの照らされた天井があった。

「あ、気がついた。荻野さん、大丈夫? 気持ち悪くない?」

紗代の覚醒に気付いた春奈が、ゆっくり顔を寄せ優しく訊ねてくる。

「せん、ぱい……?」

自分でも驚くぐらい弱々しい声で、見下ろしてくる先輩の方を向く。ともかく起き上がろうとしてみたが、またも驚くべき事に身体を震わせるばかりで力が入らない。

「駄目よ、まだ横になってなさい」

身体を起こそうとする紗代を見兼ねたのか、春奈が手を添え制する。その際、自分が着けていたはずのヘッドギアやマウスピースがすぐ横に置かれていたのに気付いた紗代は、ようやく試合の行方に思考が働いた。

「先輩、試合はっ! 試合はどうなったんですか!?」

「あなたはよくやったわ。2ラウンド1分49秒、あなたのワン・ツーと碓氷さんの右アッパーが同時に当たったの。で、あなたはそのまま仰向けに……ごめんなさい。あたしのサポートが悪かったのよ」

翳りの見える表情を浮かべ、申し訳なさそうに謝る春奈。

「……いえ。わたしの、実力…が足りなかったんです」

春奈の制止も聞かず上体をゆっくり起こすと、静かに首を振る。実力を出してなお及ばなかったのは、結果が証明する所なのだから。

春奈に肩を借りて赤コーナーへ戻ると、紗代はスツールに座り呼吸を整える。やがてレフェリーに中央へ来るよう促されると、幾分か落ち着いた足取りで歩み出した。

「ただいまの試合、2回1分49秒RSCにより、青コーナー碓氷選手の勝ちとなりました」

 放送席から結果が告げられレフェリーが雛子の腕を高々と掲げると、観客席からは静かな拍手が鳴り響く。

「あ、あのっ! 荻野さん!!」

腕を下された雛子が紗代へ向かい合う。緊張しているのか、やや声が上擦っていた。

「おめでとうございます、碓氷さん。次の試合も頑張って下さいね」

赤味の差した顔で微笑んでみせ、紗代は雛子へ右手を差し出す。
初めての試合は苦い失神KO負け。全く悔しくないとは言わないが、結果は結果として受け入れられる。

「あ、ありがとう…ございます。頑張りますっ」

ヘッドギアをしていた時は押し込んでいたのであろう、サラッと流れるロングヘアーを靡かせ緊張した声で慌てて右手を取る雛子。
相当なハードパンチャーなのに、案外気は小さいのかも知れない。

拳を交えた者同士、固い握手を交わす。
負けたばかりだというのに、不思議とまた闘いたいと思う。

(もっと練習して、次こそはきっと!)

四方へ頭を下げ、敗者はただ静かにリングから降りる。ただ、全力を出し切ったと思えたからか紗代の顔は晴れやかなものだった。

そんな紗代の気分を察したかのように、花道を帰る彼女へ惜しみない拍手が降り注ぐ。自分のファイトが認められた……幾らかの悔しさと、それに匹敵する満足感を胸に混ぜ、紗代の大会は幕を閉じた。

 一回戦で惜しくも散った紗代。その一方でもう1人の出場者、紫音は見事に優勝を飾った。
さすが紫音ちゃんだという心境と、それとは別に才能の差というものを思い知らされる。

「あ、あの! ゆ、優勝おめでとう。紫音ちゃん……」

大会の帰り、何度目かの祝福を述べる紗代。それに対し紫音は「別に」と無表情で答えるばかり。
彼女にしてみれば、特に苦戦するような相手もおらず当然といった所か。

あまりに短い対話が終わり、すぐさま沈黙の空気が漂う。他の部員たちが雑談に花を咲かせているというのに、紗代と紫音の間だけはまるで別の空間のようだ。

「それにしても、さすが紫音ちゃんは強いね。あたしと違って」

空気に耐え切れず、紗代はチクチク痛む口の中を我慢し改めて紫音に話しかける。しかし、それには視線を短く交わしてきただけで無言を通す。

再び訪れる沈黙。結局1回戦負けの自分とでは話すのも億劫なのかと、1人で勝手に落ち込み項垂れる紗代へ、静かな、そして意外な一言が帰ってきた。

「違わない……あなたももっと強くなればいい。荻野さん」

歩きながら、あくまで目線を合わせず紫音は紗代へ呟く。もう1人の同期に対する、これは彼女なりの激励だったのだろうか。
真実は分からない。しかし、受け取る側は少なくともこの一言を奮起する材料としたようだった。

「え……うん! あたし、もっと頑張る。頑張って練習して、もっともっと強くなるよ。だから、次は一緒に優勝しようね!!」

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