静かだ・・・さっきまでうるさいくらいに耳に響いていた歓声がうそのように。
天井のライトがまぶしい。
目の前に人の顔が見えた。レフェリーがカウントを取っている。
いけない、立たないと・・・体はまだ、動くかな・・・。


「よし!やったぞ!」

痛烈なヒットを何度も受けてのダウン、聡里陣営のセコンド及び応援団は聡里の勝利を確信した。
だが当事者である聡里の心中は異なるものであった。
レフェリーに促されゆっくりとニュートラルコーナーに戻りながら最後の右ストレートの感触を確かめる様に右手を見つめる。
最後の一撃、手ごたえがなかったような・・・今までに感じたの事のない違和感。
だが美月はダウンしてる、ヒットは浅かったのかもしれないが、今の美月を倒すのには十分だったのだろう、そうに違いない。

セブン、エイトとカウントが続けられて行くうちにその思いも確信へと近づいていった。
そう、今度こそ勝ったんだとあんどし、ニュートラルコーナーにもたれかかり美月のほうに視線をやるとそこには

「う、うそ・・・」

そこにはすでに立ち上がり、今まさにフォイティングポーズを取ろうとしている美月の姿があった。
聡里をにらみすえるその表情は先ほどまでの闘志あふれるものとは違い、無機質で冷たく見え、まるで別人のようにみえた。

(まだ立ってくるなんて・・・私のパンチが効いてないの・・・?)

「うう〜、美月ちゃん立ったけど・・・、大丈夫かなぁ・・・リサちん」

「今の・・・」

「リサちん?どしたの?」

「え?ううん、なんでもない」
リサもまた今の美月のダウンに少し違和感を覚えていた。
(今の動きもしかして・・・)

「美月ちゃん、止めたほうがいいんじゃ・・・」
セコンドのかなえが肩に掛けたタオルを握り締め、文月に問いかけた。

「いや、まだ大丈夫だ。今のは見た目ほど効いてないはずだ」

「ええっそうは見えなかったけど・・・」

「とにかくタオルはもう少しまってくれないか」

「う、うんわかった・・・」
百戦錬磨の文月の事だ、ただ意味もなくそういっているわけではないのだろう。
それに本当に危なかったら文月だってとめている筈。
今は文月を、そして美月を信じようと、タオルをよりいっそう強く握り締めリングの美月を見つめた。

「ボックス!」

試合続行可能と判断したレフェリーが試合を再開させる。

「効いてるぞ!攻めろ!攻めるんだ!」

聡里がセコンドの声にはっと我に返る。
そうだ、相手だって同じ人間、効いてないわけがない。聡里はそう自分に言い聞かせ、
意を決し美月との距離を一気につめ勝負に出る。

(今度こそ決める!)

聡里のジャブ二発からのボディ、美月がガードした所にさらに左のショートフック。
これもブロックされるが、ガードの上からもお構いなしに連打を続け
美月をロープー際まで追い詰めていく。

ガッ

聡里の左ジャブを美月がガードをする。
さらに美月のガードが上がった所にボディーブロー。
これもブロックされるが

(もらった!)

ボディはフェイント、本命の渾身のショートフックが顔面を捉える。
だが

「えっ!?」

手応えが、ない。今度は確かにそう感じた。
2発、3発と美月の顔面に打ち込むが、まるで空気式のパンチングバッグを殴っているような感覚がした。

「スリッピング・アウェー・・・」

「?なにそれリサちん」

「パンチのインパクトの瞬間にパンチの伸びる方向に顔や首をひねり受け流して、
衝撃を殺すディフェンステクニックの事よ」

「へええ〜美月ちゃん凄い・・・でもなんで最初から使わなかったんだろ・・・」

「それは・・・」
それはリサにもわからなかった。今まで本気じゃなかったわけでもないだろうし。
隠し玉として取っておいたとか、そんな雰囲気でもない。
とすると、やりたくても出来なかった・・・とか?と、リサが思案に暮れていた刹那、

バグン!


ひときわ大きな打撃音が会場に響き渡り、はっとリングに目をやると
リングには互いの拳が交差しあい、頬をめり込ませたまま静止した両者の姿があった。

「あ・・・が・・・」

相打ちかに見えたが、聡里だけがグローブが顔面から苦痛の声が漏れていた。
足がもつれさせ、尻餅をつくダウンを喫した。カウントが始まるが、なかなか立ち上がろうとしない。
状況が理解できず、茫然自失としているようだった。

(そんな・・・どうして・・・)

「なにやってるんだ!立て!立つんだ!」

リングを叩きながら檄を飛ばすセコンドにはっと我に返り、ふらりと立ち上がる。

「ボックス!」

(顔がだめなら・・・っ)

ボディーなら、私にはこれがある。
すばやく美月の懐に飛び込み、ボディブローを放つ。
だが美月は肘でブロックし、体をねじり受け流す。

ドスッ

聡里の体が泳いだ所へお株を奪う美月のボディブローが聡里のわき腹に食い込んだ。

「うぶ・・・っ」

体がくの字に折れ曲がり、口からマウスピースを吐きそうになる。
聡里も反撃を試みるが、体が思うように動かず、パンチは捕らえることは愚か、逆にカウンターを貰ってしまう。
幾度もパンチを話すが通用しない。焦りからパンチが

(どうして・・どうして・・・!)

がむしゃらに放った右ストレートは空を切り、勢いあまってつんのめり倒れこんでしまう。
これはスリップとなり、すぐさま立ち上がろうとするが、すとんと腰が落ちてしまう。
肉体的疲労につけて、精神的にショックも尾を引いていた。

(私のパンチが通用しない・・・どうすれば・・・どうすればいいの・・・?)

「せんせー!」

はっと声のした方に目をやると、そこには今にも泣き出しそうな園児たちの姿があった。

「負けないで!」

「立ってー!」

「がんばれ!がんばれ!がんばれ!」

(子どもたちがあんなに応援してくれている・・・それなのに私は・・・)

聡里の折れかかっていた心に再び火が灯る。
その火は聡里の心に広がった闇を明るく照らしていく。

(ごめんね・・・.みんながこんなに応援してくれているのに私は・・・)

そうだ、まだ終わってない。もう迷ったりはしない。
私は一人じゃない。
たとえどうなったとしても、みんなが支えてくれる。

もう怖くなんかない。
火は炎となって燃え上がり、体を熱くさせる。

思うように動かなかった足も今はちゃんと動く。
足にありったけの力をこめて、勢いよく立ち上がる。

「ははっ・・・立っちゃったか」

コーナーにもたれかかり荒い息をしていた美月が思わずつぶやいた。
スリップではあったが、なかなかにいたのであわよくば・・・と思ったがそんなに甘い相手じゃなかった。
リング中央で向かい合う二人、かすかに笑みを浮かべているようだった。

「ボックス!」 

レフェリーの再開の合図とともに始まる打ち合い。
お互いに気力、体力ともに限界まで来ていたが、それでも止まらない。
観客のボルテージも最高潮に達し、声援で会場がゆれる。

美月の右フック、聡里の顔面が弾ける。
しかし聡里も踏み込んでの左のジャブ、立て続けに右のボディ。

「うぶっ」

(効いてる!行ける・・・!)

細かく、すばやい連打に加え、体力の消耗によりさばき切れずに貰ってしまう。
さらに体を密着させてのボディの連打、連打。

「ぐぶ・・・う・・・ぇ」

聡里の拳が何発も腹に打ち込まれる度、マウスピースごと胃の中のものまで吐き出しそうになる。
美月が引き剥がそうとするが、まるですがりつくように離れず執拗に打ち続けられた。

「ブレイク!ブレイクだ!!」

レフェリーの声も耳に届いてないのか、強引に引き離されるまで止めなかった。

「うぐ・・・はぁ・・・はぁ・・・っ」

何発ものボディ攻撃に呼吸困難に陥る美月。
ボディへの激痛と吐き気。顔面へのパンチとは違い、意識はハッキリし地獄の苦しみが襲う。
がくりと膝が落ち、バランスを崩す。

(チャンス!もらった!)

美月に出来た大きな隙。ガードも崩れ絶好のチャンス。
すばやく足を踏み込み、ボディーブローの体制。

(ボディ!?、いや違う!!)

ボディに見せかけて狙いは顔面。フェイントのアッパーカット。
頭を狙い、意識を刈る体重を乗せた一撃。

グワシャ!

双方の声援を裂くように会場に打撃音が響き渡る。

「決まった・・・?!」

聡里のアッパーが決まり、勝利を確信していたセコンドの表情が凍りつく。

「あ・・・が・・・っ」

アッパーを受け、苦痛の声を上げていたのは美月ではなく聡里だった。


聡里のアッパーを受ける瞬間、美月はスウェーでかわしながら逆にアッパーを打ち込んでいた。
天を仰いだままの聡里の口からぼろっと口からマウスピースがこぼれ落ち、体を預けるようにキャンバスへと聡里の体が崩れ落ちていった。

「ダウン!」

すぐさまレフェリーがカウントを始める。カウントがフォーまで進んだところで聡里が動いた。

「ま・・・だ・・・」

息も絶え絶えにロープを掴み、必死に立ち上がろうとする。頭を上げると観客席で心配そうに聡里を見る園児たちが目に入った。

(大丈夫だよ・・・私は・・・まだ・・)

「セブン!エイト!」

ゆっくりと体をリングの方へ向け、両腕を胸の前へと持っていいく。

「まだ・・・戦え・・・」

ファイティングポーズを取り、戦う意思をみせる。
だが

ふら・・・

ポーズを取った所で力尽き、意識は闇に落ち、倒れかかった所をレフェリーに支えられる。

カンカンカンカン!

すぐさまレフェリーが試合を止め、ゴングがけたたましく打ち鳴らされた。

「勝者、高梨美月!!」

「勝った・・・んだよね・・・?」

どっ

勝ち名乗りを上げられると、緊張の糸が切れ、その場に座り込んでしまう美月。
試合が終わった途端に全身に拾うと痛みが襲い掛かってきた。特にお腹が痛い。

「はあああぁ〜きつかったぁ・・・色々と・・・」

「おめでとう美月ちゃん!大丈夫ですか?」

リングに上がったかなえが美月に駆け寄る。

「へへっ・・・大丈夫、超、余裕だよ・・・」

グローブをかなえにはずしてもらい、ブイサインをしてみせた。

ごっ

「なにが余裕だ、調子に乗るなバカ」

美月の頭に文月のげん骨が飛んだ。

「いたぁ!冗談だってのに!」

「まあいい、体は問題ないか?」

「あ、頭がいたいっス・・・」

まったく、こいつにはまず精神力を鍛える必要があるな。
始めからあの集中力を発揮できていれば試合ももっと違っていただろうに。

「やった−!よかったよー!!」

美月の勝利に、応援に来ていた部の仲間たちのテンションは最高潮に達していた。
美紗緒と千歳も手を取り美月の勝利を喜び合った。

「うん!よかった・・・ほんとうに・・・」

「まったく、あぶなっかしいたらないわね」

リサがふう、とため息をつき、やれやれといった様子で席に腰を下ろした。

「なになにー?さっきまで立ち上がって応援していたくせにー」

「べ、別に応援なんかしてないわよ!あ、あれは皆が立ち上がってよく見えないから私も立ち上がっただけで・・・」

「とかいって、ライバルとしては負けて欲しくないでしょー?」

「ふふーん、ま、そういうことにしておくよっ」

ライバル、か・・・。
ライバルなのかはともかくとして、一度美月に苦杯を舐めさせられたリサとしては、またいずれ美月と戦いたいと思っている。

「さっ美月ちゃんところに行こっ」

「私は残りの試合も見たいから後で行く」

「ぶー。じゃ、いこっちーちゃん!」

「う、うん」

そう、今度はあのリングの上で必ず・・・。

 

────

 

「美月ちゃんおめでとー!」

控え室に入ると、美月は既に着替えも終えた所だった。

「おー!ももちーにちーちゃんありがとー!」

「美月ちゃん、怪我はない?大丈夫」

千歳が心配そうに美月に駆け寄る。

「うん!この通り大丈夫大丈夫!」

腫れや赤みが残った少々痛々しい顔でにっこりと微笑み、千歳をぎゅっと抱きしめる。

「心配してくれてありがとう・・・」

実の所体はぼろぼろ、特にボディの痛みはいまだに抜けていないが。
千歳の顔をみただけで疲れも痛みも吹っ飛んだ気がした。

「よかった・・・」

そういって美月は自分の顔をやさしくさする千歳の手をとり、二人の顔が近づいていき、そして─

「こほん!」

美紗緒の咳払いにはっっとする二人。

「二人の世界に浸ってるとこ悪いけど、そういうのは時と場所を選んだほうがいいんじゃないな〜?」

気づけば控え室にいた他の選手や関係者が唖然とした顔で二人の様子を見ていた。

「あ・・・」

それに気づき顔を真っ赤にして千歳が美月から離れる。

「まったく、こういう時だけは周りもみえなくなる位集中するんだが・・・」

文月があきれ返った様子で呟いた。

「え?文姉なんか言った?」

「べつに、ほらいくぞ」

「?はーい」

 

────

 

「でも最後のあれすごかったよねー、スリッピング・アウェーだっけ?」

「え?なにそれ?」

美月がきょとんとした表情で聞き返す。

「なにってほら、最後にやってたじゃん。こう、パンチをかわすのをさ」

美紗緒が身振り手振りでパンチを打つまねをして見せるが、美月の顔にはクエスチョンマークが浮かぶばかりで、
何のことかさっぱりといった様子。

「んんーそんなことしたっけかなぁ・・・?よくおぼえてないや・・・って前みて前!」

「きゃっ」

美紗緒が美月のディフェンスのマネをしていたところに、曲がり角から曲がってきた人にぶつかってしまう。

「あっごめんなさい・・・あ。」

「あ・・・」

それは怪我の処置を終え、帰るところだった聡里だった。

「ど、ども・・今日はありがとうございましたっ」

どぎまぎしながら美月が挨拶をする。

「いえ、こちらこそ、とても良い試合でした。」

そういって聡里は試合の時とは打ってかわり、試合前の時の様なやさしい笑顔でそっと右手を差し出し、握手を求めた。

「あ・・・え、えへへ」

それに照れくさそうに応える美月。

(うわーやっぱり綺麗だなぁこの人・・・)

美月同様、激しい打ち合いであちこち腫れや痣が残っているが、やっぱり綺麗だ。
ちーちゃんにはない大人の魅力。やっぱり惚れそう・・・。

「・・・美月ちゃ・・・」

美月のデレデレした様子に見かね、千歳が横槍を入れようとしたその時だった。

だだだだだだ!

ドスゥッ!

「ごふぅ!?」

美月の腹に何か重いものがぶちあたった。

「よくも先生をいじめたな!オレがやっつけてやる!」

それはもう突進してきた子どもの頭だった。
どうやら聡里を応援に来ていた園児らしい。

「ま、まーくん!?すみませんすみません!」

なおも美月に文字通りの駄々っ子パンチを加える園児を制止し、ペコペコと平謝りの聡里。

「う・・・ぷっ・・・」

だだだだだっ!

「あっ美月ちゃん!?」

園児が離れたところで美月が全速力で駆け出し、洗面所に駆け込む。
そして

「うっうえええええええええぇぇぇ!」

「あ〜・・・やっぱり限界だったのね・・・」

「美月ちゃん・・・ばか」

「こ、子どもはちょっときらいになりそ・・・」

 

END

 

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