「リサちゃん、ちょっといい?」
それは、リサ・ランフォードが七星(ななぼし)ボクシングジムでトレーニングしていた時の事。
アメリカ人ながら単身日本へ渡り、プロボクサーとなった彼女は、会長である七星 かなえに呼び出しを受けた。
「あ、はい」
タタン、タタン、とリズミカルに叩いていたパンチングボールを一旦止め、スポーツタオルを肩に掛けたリサは会長室のドアを叩く。
礼儀正しく一礼してから入室すると、そこにはかなえの他にもう1人の女性が同席していた。
「文月……いえ、高梨トレーナーもいらしたんですか」
椅子に腰掛けるかなえの隣で立つ高梨 文月は、リサへの挨拶もそこそこに何かしらの資料らしき紙を数枚、リサへと渡した。
「リサ、お前のデビュー戦が決まった」
淡々と用件を告げ、資料に目を通すよう促す。
「あ、はい。ありがとうございます。えっと……きゅうてい?」
「宮延 卯月(みやのべ うづき)。4月生まれだから卯月なんだそうだ」
恥ずかしい読み間違いをしてしまい、照れ隠しのように資料に食いつくリサ。資料には写真も添付されており、対戦相手たる卯月の容姿をまじまじと碧い瞳に映し込む。
スポーティーなショートカットで髪を整え、ファイティングポーズを構えている卯月の写真。そこで、リサはひとつ気になる発見があった。
「この選手もデビュー戦なんですね。それにこの肩の筋肉……」
「ええ、かなりのハードパンチャーらしいです。アマチュアの実績こそないけれど、向こうのジムの秘蔵っ子だと聞きました」
「で、その秘蔵っ子に箔を付けるって意味で、アマチュアの実績豊富なお前をわざわざ指名してきたって訳だ」
ややふてくされた表情で、文月は吐き捨てる。どうやら、この試合を仕組んだ相手側のジムに不満があるようだ。
「残念だけど、今回こちらに拒否権はないの。向こうのジムの主催にこちらも乗っかる形で、他にも何人か試合のある選手がいるのよ」
文月と違い、どことなく申し訳なさそうな表情を覗かせるかなえ。文月のライバルであった、リサの母親から預かったような立場の少女なのだ。
出来ればもう少し自由の利く試合を組んでやりたかった、という後悔を多少なりと感じているのだろう。
「構いませんよ。試合出来るなら、相手は誰だって。なるべくなら早い方がありがたいです。のんびり立ち止まってる暇、ありませんから」
美月にこれ以上置いていかれる訳にはいかない、という言葉が喉の奥まで出かかり、辛うじて飲み込む。
置いていかれる、とはどういう意味なのか?
確かにプロのリングで美月への借りを返したい、という思いが奥底に眠っているのは確か。以前の須上 聡里(すがみ さとり)と美月との激闘を目の当たりにし、それはハッキリ理解した。
だが、少なくとも今はジムメイトなのだ。闘う事なんて出来ないのに……
結局、芽生えた自問自答に解答を見出す事は叶わず、リサは今回の試合を受けた。だが、その日の練習はとても集中出来るような精神状態ではなかった。
それから時は過ぎ、いよいよ試合の前日。各出場選手の計量の為、リサはかなえや文月に伴われ試合会場へと入っていた。
そこでは、既に対戦者である卯月が会場入りしていた。
(あれがあたしの相手か……)
真剣な眼差しで、リサは卯月の所作動作に目を配る。ジムの秘蔵っ子というだけあって、初めての公式計量を前にしても落ち着いたものだ。
まずは卯月が計量台に載り、こちらは1発クリア。続いてリサも服を脱ぎ、下着姿で計量台へ。豊満な肢体を晒す恥ずかしさはあったものの、努めて平静に秤の上へ載る。
「47.25kg……リサ・ランフォード選手、計量OKです」
心の中で計量パスの言葉に喜びつつ、やはり見た目には出さず静かに服を着ていく。
「えっと、はぅあーゆー?」
服を着終えた頃、隣から妙な声が聞こえた為そちらを振り向く。そこには、ロクに使えないと分かる英語で必死に会話を試みようとする卯月の姿があった。
「日本語でいいわよ。話せるから」
呆れたような、または微笑ましいような、複雑な感情を抱きつつ、卯月に正対するリサ。
「あ、そうなんだ。よかったぁ、日本語が話せる外人さんで」
母国語が通用すると分かり、ほっと胸を撫で下ろす卯月を見やる。外人さんなどと言われ、さすがに少し腹が立ったようで不機嫌顔を見せていた。
「今回あなたの相手をする宮延です。たぶん数分だけのお付き合いになると思うけど、よろしくお願いします」
爽やかに挨拶をして、卯月はそっと右手を差し出す。本人は意識していないのかも知れないが、どこか挑発めいたものが潜んでいる。
あなた、最後まで立っていられないよ
そう言われたような気がした。
「リサ・ランフォードです。お互い、いいデビュー戦にしましょう」
いちいち目くじらを立てるのもらしくないと、リサは静かに卯月の右手を握る。全ては明日、試合で照明してみせれば済むだけの話だ。
そして、眠れぬ夜を過ごし試合当日。朝、鏡で自分の顔を見たリサは1人で驚愕し、慌てて浴場へと駆け込んだ。さも寝不足です、と喧伝するかのような形相になっていたからである。
試合は夕方。昼にはジムに到着しそのまま会場入りする手筈となっていた。
「情けない顔。なに緊張してるのよ、あたし」
コックを捻り、熱いシャワーで全身を打たれながら、鏡の中の自分へ叱咤する。待ちに待っていたプロデビュー戦だというのに、嬉しいどころか逆に不安ばかりが募っていく。
美月は……アイツは、この不安と毎回闘っていたのだろうか?
ボクシングは己との闘いである、とはよく言ったものだと素直に感心してしまう。このままでは不安や恐怖に押し潰されてしまうと思い、
手早く準備を済ませるとそのまま家を飛び出していった。
リサたちは青コーナー側の控え室へ入り、他の出場選手を尻目に試合準備へと入っていく。
黄色地のスポーツブラ、赤地にベルトラインとサイドを白で合わせたトランクス、黒のリングシューズ。それらをバッグから取り出し、黙々と着替える。
大方の準備が出来、文月にバンデージを巻いてもらうとインスペクターによるバンデージチェック。
「問題ありません。では、グローブを着けて下さい」
リサの両拳に合格のサインを書き、グローブを着けるよう指示が入る。それに従い、コーナーに合わせた青グローブを嵌めさせてもらうとテーピングで固定した。
「ありがとうございます。あの、すみませんがちょっと1人にしてもらっても構いませんか?」
「え? ですが……いえ、分かりました」
リサの言葉に対し、かなえは何か言いたげながら、文月は無言で控え室を出ていく。
長椅子に座った姿勢のまま、リサは何度か深呼吸をする。気持ちは落ち着くどころか昂ぶりを抑えられない。
これが武者震いならまだ恰好もついただろう。だが、残念ながらこれは不安が一層大きくなったものだ、と自覚していた。
(今日があたしのプロデビューなんだ。負けられない、あいつの前で無様な試合なんか……出来ない!)
応援に来ているであろう、美月の姿が脳裏に浮かぶ。何かにつけ意識させられるその存在を、頭を振って消し去ると長椅子から立ち上がり、軽く身体を動かし始めた。
「リサ、そろそろ時間だ」
どのぐらいシャドーをしていただろう。控え室のドアが開き文月がリサを呼ぶ声が聞こえる。
「はい!」
リサは大きく返事すると、1度胸元でグローブをバンッ! と打ちつけ控え室を後にした。
無機質な通路を無言で進み、やがて見えてきたドアを開け放ち……
ワアアアアーーーッ!
熱気に満ちたリングが目の前に広がった。
(ここが今から上がるリング……?)
まだメインイベントから遠い為か客席は空席も目立つのに、既にこの熱気。これがメインイベントともなると、一体どうなるのか。
「ほら、なにボケーっとしてる? 行くぞ」
会場の熱気に中てられ、呆然と立ち尽くしているリサの肩を文月が叩く。それでようやく我に戻ったリサは、慌ててリングへ歩き始めた。
幾人もの選手が通ってきた、栄光と挫折の花道を進むうち、リサの中で違和感が現れてきた。
ふと観客席で自分を見下ろす日本人たちと目が合い、それがまるで招かれざる来訪者を見るかのように映ったのである。さながら、アウェイの地に足を踏み入れたかのよう。
確かにアメリカ人であるリサにとって、この日本は他国の地。しかし、今更このような違和感に苛まれるとは、正直思わなかった。
嫌な違和感で集中力も散漫な状態のまま、リサは松ヤニをシューズの裏に馴染ませリングへと上がる。
ライトに照らされたそこは、見えざる悪意が渦巻いているかのようで、リサは急な吐き気を覚えた。
「大丈夫ですか? リサちゃん」
リングに上がったきり青い顔をしていたリサを、かなえが揺さぶる。
「えっ!? あ、はい。大丈夫、です」
まだ青い顔のまま、リサはかなえを心配させまいと必死に微笑んでみせる。が、無理をしているのは明らかだった。
まさか異国のリングに立つのがこんなにプレッシャーになるなんて、と自嘲気味に笑うリサ。
やがて赤コーナーに卯月が入り、四方へ頭を下げていく。こちらは随分とリラックスしているようだ。身内からの応援の声も聞こえてきた。
(ホントにアウェイに来たみたい)
卯月に対する声援の大きさが、余計に疎外感を引き立たせる。そう思っていた時、
「リサー、頑張れーー!」
「リサちゃん、ファイトーッ」
「リサちん、KOだ! KOー!!」
聞き覚えのある大声が耳に入ってきた。
「美月…千歳…美紗緒…」
千歳は周囲の目を気にしながらも懸命に、美月は周りなど気にせずひたすらに大声を張り上げ、美紗緒は身を乗り出すように立ち上がって、それぞれリサへ熱烈な声援を投げ掛けている。
これは、色んなプレッシャーで頭がぐるぐる回っていたリサの思考回路を、多少なりと正常に戻す役割を果たした。
まだ完全に持ち直せた訳ではないが、少なくとも胸を張って試合に臨めそうだ。
試合に関する諸注意を受け、リサと卯月は静かに両拳を突き合わせる。そして、レフェリーの合図と共に各コーナーへと戻っていった。
卯月は、赤のスポーツブラと同色に黄色のサイドラインの入ったロングトランクス、白に赤ラインのショートシューズ。そして拳にはコーナーに合わせた真紅のグローブといった出で立ち。
興行側の秘蔵っ子だけあって、見た目も派手なものだ。デビュー戦から売り込もうという意志が窺える。
「リサちゃん、宮延選手に関してはあまりデータがありません。ただ1つ分かっている事は、あなたに劣らない強打の持ち主だという事です。
で、最初は打ち合いにいかずに様子を見て下さい。幸いリーチはリサちゃんの方がありますから、ジャブをばら撒いてミドルレンジを維持。いいですね?」
チーフセコンドのかなえの指示に、無言で頷くリサ。文月からごく少量の水を口に含ませてもらい、ゆっくりと喉を通していく。
顔に浮かんだ汗をタオルで拭ってもらい、ワセリンを塗るとそのままマウスピースを銜える。
ビーーーーッ! とセコンドアウトを告げるブザーが鳴り、リングに残るは2人のボクサーとレフェリーのみ。卯月へ向けられた大歓声と、リサへ向けられた小さな歓声の中……
カァァァァンッ!
試合開始を告げるゴングが、高らかに鳴り響いた。
リング中央に進み、右拳を軽く合わせるリサと卯月。そして、かなえの指示通り中間距離を維持しようと動くより先に、卯月が仕掛けてきた。
「ッ!?」
まさかデビュー戦の最初から強引なインファイトを仕掛けてくると思わなかったリサは、イニシアチブを卯月に取られてしまった。
(なに、コイツ!?)
セオリーというものがないのか、と内心で苦々しく思いながらガードを固める。様子見も何もなく、卯月の凶弾がリサを仕留めるべく襲い掛かってきた。
左ジャブをサイドスウェーでかわし、右ストレートはスウェーバックで下がりつつ丁寧にブロッキング。
グローブ越しにズシンと重さが伝わってくる辺り、ハードパンチャーというのもあながちジム側の吹聴ばかりではないようだ。
更にスピード感あるステップインからの左ボディーフックの2連打を、ガッチリとエルボーブロックで防ぎ有効打を取らせない。
リサの卓越したディフェンステクニックによって、卯月の攻撃はその悉くを凌がれてしまう。しかし、一方で回転の速いパンチの雨とステッピングに戸惑い、距離を離せないでいた。
何とかパンチを打ち返してはいるものの、自分より背の低い卯月は更に頭を低くして打てる箇所を制限し、グローブの上からしか叩けない。
(くッ、こうも頭を押し付けられちゃまともに殴れない……やっぱりなんとかして距離を取らないと)
早々にインファイトの不利を悟ったリサは、とにかくも距離を取ろうとステップを踏み、突き放そうとジャブを打つ。
しかし、敵は思わぬ所からリサを絡め取ってきた。
「ストップ!」
突如レフェリーが2人の間に割って入り、リサの方を向く。何事かと息を弾ませたままの彼女は、次の瞬間自分の耳を疑った。
「もっと積極的に打ち合うように。次は減点するよ」
リサの行動を消極的なものと取ったレフェリーから、厳重注意を受けたのである。
(え……なんで。こんな程度で注意を受けたの? あたし)
試合開始から、まだ30秒かそこらの攻防。しかも、一方的に打たれている訳でもなくちゃんと打ち返している。
手数は圧倒的に卯月の方が多いのは認めるが、まともに貰ったパンチはまだ1つたりとしてない。
それなのに、何故あたしだけが注意を受けなければならないのか?
あまりの理不尽さに呆然としていたリサへ、追い討ちを掛けるかのように観客席から野次のような声が降り注ぐ。
「おいおい、逃げるだけじゃ試合にならねえぞ!」
「ちゃんと打ち合え、ちゃんと!」
「外人ビビッてるぞ、宮延倒せぇッ」
理不尽な注意に理不尽な罵声。試合に集中し始めていたリサの思考回路は、これで再び混乱を極めた。
仕切り直して試合再開の指示が飛ぶが、混乱の極みにあったリサに、かなえや文月や美月たちの声は届かない。
眼前の卯月に対する集中力すら欠いていた。
ディフェンスは一気に崩れ、良いように卯月のラッシュに晒されてしまう。腹に左ストレートを貰い、右フックで頬を打たれ、唾液や汗を散らせながら、散発的に左ジャブを打ち返すので精一杯。
「なにやってるリサ!? 止まるな、脚を使えッ」
文月がエプロンコーナーをバンバン叩き、動きの悪くなったリサに激を飛ばす。しかし、リサには届かない。
亀になって卯月のパンチを耐え、何度も衝撃で身体を揺らす。そして、第1ラウンド残り30秒。局面は一気に動きを見せた。
猛攻に耐え兼ねたリサがクリンチで凌ごうとした、その瞬間……
ゴッ!
猛禽の赤い牙が、リサの形の良い顎へ痛烈な一撃を見舞った。
「ぶげぇッ」
下から響く重い衝撃に、リサは顔を天井へ向けられ霧の汗を撒き散らす。あまりの威力に、唾液に濡れたマウスピースが口から飛び出し、主の後方へと落下していく。
そして目いっぱい伸びたその身体は、糸を断ち切られたマリオネットの如く制御を失い、キャンバスへと沈んでいった。
「ダウーンッ! 宮延、コーナーへ」
レフェリーが卯月にニュートラルコーナーへ下がるよう指示し、軽く片腕を上げながら声援に応えるように悠々と下がっていく。
ニュートラルコーナーに着いたのを確認すると、改めて大の字でダウンしているリサを見下ろし、ダウンカウントを始めるのであった。